2008年08月28日

【INDEX】ベトナム・カンボジア紀行

ベトナム・カンボジア紀行[子の巻]・・・・・・東京→サイゴン
ベトナム・カンボジア紀行[丑の巻]・・・・・・於サイゴン
戦争映画 FALL IN!! Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」
ベトナム・カンボジア紀行[寅の巻]・・・・・・サイゴン→プノンペン
ベトナム・カンボジア紀行[卯の巻]・・・・・・於サイゴン
戦争映画 FALL IN!! Vol.11 「キリング・フィールド」
ベトナム・カンボジア紀行[辰の巻]・・・・・・プノンペン→シェムリアップ
ベトナム・カンボジア紀行[巳の巻]・・・・・・於アンコール・ワット
ベトナム・カンボジア紀行[午の巻]・・・・・・於シェムリアップ
ベトナム・カンボジア紀行[未の巻]・・・・・・シェムリアップ→プノンペン
ベトナム・カンボジア紀行[申の巻]・・・・・・プノンペン→サイゴン
ベトナム・カンボジア紀行[酉の巻]・・・・・・サイゴン→メコン・デルタ→サイゴン
ベトナム・カンボジア紀行[戌の巻]・・・・・・サイゴン→東京

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2008年08月25日

ベトナム・カンボジア紀行[戌の巻]

第10日目

奇跡的に7時に起床。
昨晩はOさんと深夜まで話しこみ、宿に帰ると倒れるように床に就いたのだが、意外なほどぱっちりと目が覚めた。
心のどこかには今日の9時までには空港にいなくてはという緊張感があったと思われる。

同宿の誰もが寝静まる中、いそいそとシャワーを浴び、帰りのためのパッキングをする。

荷物を背負い1階に降りると、宿のみんなに「ゲイに違いない」と噂されていた宿のおじさんもまだ就寝中だった。揺り起こして宿代を払うと、最後に手を差し出し握手を求められたので、その求めに応じると腕をグイと引かれ、ハグをされた。

やっぱり噂は本当なのかなと思ったが、それ以上は何もなく(あるわけないが)、シャッターを開けてもらい朝のデタムの陽光を浴びた。

まだ空港に向かうには時間があるので、近くの屋台でまたバケットを買った上にフォーも頼み、腹ごしらえをする。
今日は月曜日なので心なしか交通量も多く、ただでさえ多いバイクの往来がより激しいように感じられる。

タクシーを拾い、空港に向かう。

道すがら運転手が「日本からかい?」と聞くので「そうだよ」と答えると、「ベトナムはどうだったかい?」と続けて尋ねられた。

少し考えてから「インフレすごいよね」と答えると、「そうなんだ。困ったもんだよ」と言ったきり何も語らず、鼻歌交じりで空港までひた走った。
我ながらつまらない回答をしたものだ。


ベトナムはBRICsに続くVISTA(ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチン)の頭文字に当たるため、さぞや経済発展著しいのだろうと思っていたが、その実すでに景気は曲がり角を過ぎ、急激な物価上昇は数日でも肉眼で確認できるほどだった。

例えば出発前に調べたゲストハウスの値段は1泊$5〜$6だったが、いざ着いてみると大体$8が相場だったし、カンボジアから帰ってきて前$8で交渉決裂した宿を再訪したら$10だと言われた。ゲストハウスの値付けは結構適当なのでこれをして基準にはならないが、東南アジアの物価水準で考えたこのお値段は明らかに高い。


そんなことを反芻しているうちにタクシーは空港の国際ターミナルへと滑り込んだ。


定刻の10:50に飛行機はサイゴンを飛び立ち、経由地の台湾を経て日本へと帰りついた。


何の計画性もない旅だったが、同時に何のトラブルもなく、そのくせ目的はきっちり達成することができた。

最後に道中知り合い、様々な形で懇意や助言、あるいは単純に知遇を与えてくれた人々に感謝して今回の旅日記を締めくくりたい。

空港ロビーにて

2008年08月24日

ベトナム・カンボジア紀行[酉の巻]

第9日目

Day9

7:30起床。
身支度を整え、バス停に向かう。
途中、もはや常食となったバケットを買い、かじりながらバスを待つ。

シン・カフェ前は朝の送り出しラッシュで、ハノイ行き、プノンペン行き、クチ・トンネル行きなどのバスが引っ切りなしに来ては乗客を詰め込み、発車していった。

程なく自分の乗るバスもやってきた。
立派なバスで今まで道中で利用してきたどのバスよりも新しかった。

隣の席は日本からきた看護士のRさん。
この後の半日、なんとなく一緒に行動することになる。


目的の場所はサイゴンから南西に90km程下った場所にあるベンチェ省(Ben Tre)。
メコン川と太平洋が出会う三角州(デルタ)を構成する場所に位置する。

かつては米軍の手で枯葉剤が大量に散布されたことにより、深刻な被害がもたらされ、ベトナム戦争が終わった後も長年不毛の地として作物が育たなかった土地である。
また、枯葉剤の影響で多くの奇形児や精神障害者を生み、その負の遺産は今も残っている。


現在は緑も戻り、農業や水産業、そして観光業を生業としている。


バスは2時間ほどでデルタ地帯に到着し、ボートに乗り換える。

ベトナムの大橋
※クリックで拡大

ボートからまず見えたのがこの建築中の大橋。
以前も書いたが、自分大きな建造物を見ると畏怖を覚えると同時に妙にテンションが上がる癖があり、今回もお前そこかよってくらい1人で橋の写真ばかり撮りまくっていた。

メコン・デルタ集落

果てしなく眠かったパトリス・ルコントの映画「Dogora」みたいな風景が続き、実際にうとうとし始めたところで辺りは熱帯植物が生い茂り、ジャングル・クルーズな感じになってきた。

ジャングル

中州にある小島の1つに降りると、そこではライスペーパー作りをやっていた。
おねいさんがクレープの要領でライスペーパーを作りながら、隣のおねいさんに何か話しかけていた。
大方「こんなもん見て何が楽しいんだろうねえ」とかそんな雰囲気。

ライスペーパー作り

隣にいたイタリア人男性が彼女は何て言ってるんだ?というジェスチャーを送ってきた。
(その人は行きのバスの中で、あまりに急ブレーキが多いので、運転手に激しくクレームをつけていたおじさん。)

まともに知っている数少ないイタリア語で
"Il lavoro e faticoso."(私の仕事は大変骨が折れます。)
と言っているよ、と適当に答えると、恐らく「Youはベトナム語もイタリア語がわかるのか?すごいな」みたいなことをイタリア語でまくし立ててきたので、すんません英語と日本語専門です、と英語で伝える。(←ややこしい)

彼、ジャンは男3人ぶらり旅でミラノからベトナムにやってきたそうだ。
連れの2人、マルチェッロとリカルドを紹介してくれたところで、早めのランチタイムとなったので、Rさんを呼んで5人で飯を食うことになった。

ファッション関係の仕事をするマルチェッロは日本に来たことがあるとかで、知っているアーティストの名前なんかをやっとこやっとこ思い出しては教えてくれた。

リカルドはコンピューター関係の仕事をしているそうで、当時は日本デビュー前だったiPhoneでこれまで撮影した写真を見せてくれた。


折りしもこの時期はシルヴィオ・ベルルスコーニが首相に3選された時期なので、ジャンに軽くその話を振ってみた。
曰く「彼が返り咲いてほっとした」とのこと。

続けて小声で"No communist"(コミュニストはいかん)と強い調子で言う。
※ベルルスコーニの前のプローディは左派=コミュニスト


しかし、そう語るジャンは真っ赤なパンツにベトナムの国旗、金星紅旗をかたどった真っ赤な帽子をかぶっていた。


3人はボケ=大ボケ=ツッコミの関係が見事に成立していて、一緒にいて非常に愉快な連中だった。

集合写真
左からジャン、Rさん、マルチェッロ、リカルド

ツアーだけあって、やれ馬車だの手漕ぎボートだの色んなアトラクション的アイテムを乗り継いだり、なんか歌を聴かされたり、竹で編んだ傘をかぶせられたりと要らんサービスがついてきたが、いつぞや体験したアユタヤ・ツアーよりはるかにクオリティが高かったし、何より上の連中と一緒にいたので、退屈しなかった。

川くだり
※クリックで拡大

こんなたおやかな風景の中、ゆったりと川を下るボートに揺られていた時など、強行軍だった今回の旅の締めくくりとして実に穏やかな時間を過ごすことができことに至福を感じた。


最後、はしけに向かう途中にボートがエンジントラブルで10分くらい停まった以外、これというトラブルもなく、むしろ物足りなさを感じるほどツアーは順調に幕を閉じた。

サイゴンに向かう帰りのバスの中ではすっかり眠りこけ、目が覚めるとシン・カフェ前に到着していた。

イタリア人の3人とはここでさよならとなり、来年日本を訪れる予定だと言う彼らと連絡先を交換した。


なお、この後は同じツアーに参加していた某大手電機メーカーに勤めるOさんとカンボジア人の青年と夕食を一緒にする約束をしていた。

しかし、その前に今日中にどうしてもやっておかなければいけないお土産探しと言うタスクがあった。
今夜の便で日本に帰るというRさんとマーケットに行って、やっつけで目に付いた食品や雑貨を購入する。

Rさんは折角ベトナムに来たのにまだフォーを食べていないというので、夕食が控えてはいたが、マーケット内の食堂で一緒にフォーをすすった。


Rさんを見送った後にデタムに戻り、待ち合わせをしたカフェに行くと、カンボジア青年はおらずOさんだけがいた。

さらに30分ほど待ったが、結局もう1人の彼は来そうな気配がなかったため、後ろ髪ひかれつつOさんと2人で近くの食堂に腰を落ち着けた。


Oさんは40台半ばくらいで、教養があり、自分の大好物である歴史の話やそれにまつわる本や映画の知識が豊富であった。
特に中国共産党についての造詣が深く、興味深い話をいくつも紹介してくれた。

今回周遊したベトナムは今でも中共の影響下にあるベトナム共産党の独裁だし、カンボジアのクメール・ルージュを培養したのも中共である。
また昨年訪れたネパールはつい先ごろ王政が廃止され、ネパール共産党毛沢東主義派=マオイストが実権を握っている。

北京五輪開催を前にチベットやウイグルの問題が騒がれていたが、強権主義の性格を持つ中国共産党の影響を強く受けているのは何もチベット、ウイグルだけではない。


明日の午前10時の便で日本に帰るため、それほどゆっくりしていいわけではなかったが、まさに今回の旅の総括となるマクロ視点で見たアジア世界の政治地図について、夜が更けるまで語り合った。

2008年08月12日

ベトナム・カンボジア紀行[申の巻]

第8日目

Day8

7:30起床。
シャワーを浴びて荷作りをし、チェックアウト。
バス停近くの食堂で朝食をとり、きれいに手持ちのリエルを消費した。

サイゴン行きのバスは予定通り9時に出発し、快調にベトナムとの国境に向けてひた走る。

トンレ・サップ川
トンレ・サップ川

天気は今にも雨が降り出しそうな曇天で朝なのに夕刻のように暗い。

持ってきた2冊の本も読み終えてしまい、暇なので今回出会った人たちを振り返ってみた。

スリランカ人Dさん
ウクラナイナ人Nくん
サイゴンの屋台で会った日本人のおじさん
バスで隣だったマレーシア人青年
頼んでないのに2つのお粥を持ってきた屋台の兄ちゃん
アメリカ人のジェフリー(本人承諾のため実名)
ロシアンマーケットにいたカンボジア人の女の子(本文では省略)
ビールを水のように飲むドイツ人のおばちゃん
アンコール・ワットで土産物を売る女の子たち
シェムリアップの映画館のスタッフ
泥沼だと知ってて教えてくれなかったスペイン人のおばちゃん
デジカメを見せてくれたポーランド人
傘を貸してくれたカンボジア人青年
日本への留学が夢なカンボジア人ウエイター
ゲストハウスで一緒にプチパーティをしたカナダ人カップル、スウェーデン人、ブラジル人、アメリカ人、南アフリカ人、カンボジア人、大阪から来たSくん。
小学校教諭になるTくん
鍼灸師のUくん
屋台で働いていたバツイチのお姉さん


以上が「ベトナム・カンボジア紀行」のエンドロールにクレジットされる人々ということだ。
挙げてみると結構いるものだ。

「海外の1人旅は寂しくないですか?」と最近ある人に言われたけど、ご覧の通り1人で寂しいのは成田を出発する時くらいのものだ。


国境

国境には昼前に到着し、カンボジアの出国手続きとベトナムへの再入国手続きを行う。今回もあっさりしたものだった。

またバスに乗ってぼーっとしていると途中ついに大雨が振り出し、面白いほど激しい雨がバスの屋根をたたく。
そんなことお構いなしにバスは猛スピードですっ飛ばし、あっという間に街らしい風景に変わって、予定より早い15時にはサイゴンのシン・カフェ前に到着した。

着いた頃には都合よく雨は上がっており、宿探しをする頃には晴れ間が覗いていた。
何軒か回ったが結局いいところが見つからず、仕方なく前と同じ安さだけが売りのドミトリー($3/1泊)に行き、ベッドを選んだ。

ゲストハウス
こんなとこ。ぼろいし暗いしなんか臭い。

荷物を下ろしてデタムに戻り、やみつきになったバケット屋を探す。
午後はあまりやっていないようだったが、ようやく1軒見つけ、ハム+チーズをトッピングしてありつく。

やっぱり震えるほどうまい。


さて、もしものことを考えてシェムリアップから駆け足でサイゴンまで帰ってきたが、無事に戻って来れたので明日1日は全く自由に使うことができる。

どうしたものかと考えたが、丸1日サイゴンにいたのでは確実にもったいない。
日帰りで行ける場所の候補としてはベトナム戦争時に掘られた全長200kmのクチ・トンネルが現実的だった。

しかし、ここまで散々戦争の足跡を辿ってきたわけで、最後くらいは殺伐とした歴史とは乖離した観光っぽい場所に行きたいと思うのが人情だ。

シン・カフェに行くとクチ以外にはメコン・デルタへの1日ツアーが目に留まった。

思えば半年前、メコン川の源流に近いネパールに行ったことを思い出し、ヒマラヤの1滴がいくつもの国境を越えて海へ注ぐ姿を見届けるのはグレートジャーニーみたいでかっこいいじゃないかと考えた。

値段も160,000D(≒1,000円)とお手頃だったので、そのツアーに申し込むことにした。
ツアーではかつて苦い経験をしたこともあったが、1人でそこまで行って日帰りで帰ってくることを考えるとツアー以外に選択肢はなかった。

無事に申し込みを済ませ、宿に戻り、湿ったベッドに横たわると瞬殺で眠りに落ちた。


宿のベランダから

目を覚ますと18時を回っており、今日は大して何もしていないのだが、都合よく腹が減ってきた。

街に出て北に向かい、最初の夜に行ったタオ・ダン公園に行ってみる。今日は何のイベントもやっていないようで、比べ物にならないくらいがらんとしていた。
ここに来たのはわずか1週間前なのだが、随分昔のことのように思える。

宿との中間くらいにある適当なレストランに入り、春巻とカニ・スープ、そして呆れるくらい毎晩飲んだビールを頼む。
興味があるわけでもないマンチェスター・ユナイテッドとチェルシーのテレビ中継を眺めながら、何日かぶりで純粋に1人の夕食を楽しんだ。

外はまた雨が降ってきて足止めを喰らうが、急ぐ理由などないので上がるのを待って、チェックを済ませた。


まだ宿に帰るには早かったので、デタム通り沿いにあるバーに入り、今度はルールすら一切わからないクリケットの試合をぼんやりと観戦した。

隣のスコットランド人男性がじっとテレビを観ていたので「ルールわかる?」と聞くと「いや俺も知らない」との答え。なんてことない話を二言三言交わすが、これといって盛り上がらず、今度は都合よく眠くなってきたので宿に帰ることにした。


天気のせいもあるが、旅も佳境を過ぎ、なんとなく哀愁の漂う1日であったような気がした。

2008年08月10日

ベトナム・カンボジア紀行[未の巻]

第7日目

ポピュラー・ゲストハウス
昨夜のパーティ会場

6:30に起床し、ロビーに降りて受付にいた女性に今日プノンペンに戻るバスが取れるかを尋ねてみた。
確証はないが多分昼に出るバスが取れそうだ、とのことで一応安心し、部屋に戻って二度寝。


8時に正式に起きて、オールド・マーケットに足を伸ばしてみた。
市場は一種の社交場であり、地元の生活を垣間見る有力な手段なので、新しい街に行くと割とよく行く。

オールド・マーケット


市場を出て、シェムリアップにあるキリング・フィールドに行ってみることにした。
前も書いたがカンボジアにはあちこちにキリング・フィールド=処刑場跡がある。
シェムリアップはクメール・ルージュにとって、大きな拠点であったため、その瘢痕も小さくはないはずだ。

場所は街の北西にあり、歩くにはちょっとしんどそうだったが、半日も使わないのにまたわざわざ自転車を借りるのはもったいない気がして、徒歩で行くことにした。

しかし、その距離は思った以上にあり、自転車レンタル代の$2をケチったことを後悔した。
道は一本なのだが、歩けど歩けどなかなかそれらしき場所が見えてこない。
自分の持っている簡単なフリーマップにはほとんどランドマークが記されていないため、途中あっているのだろうかと不安になった。

バイクタクシーを見つけたら迷わず乗っていこうと考えたが、普段は鬱陶しいくらい話しかけてくるのに、こんな時に限って全く見当たらない。

結局猛暑の中を30分以上歩き、ようやく目的地にたどり着いた。

シェムリアップのKF

シェムリアップのキリング・フィールドはプノンペンのそれと違って当時の面影はない。

KF内の寺院

地面はコンクリートで舗装され、立派な寺院が建てられていた。
しかし、敷地の一画には当時の写真や犠牲者の遺骨が置いてあった。

犠牲者の遺骨
無造作にお堂に納められていた遺骨

キリング・フィールドの写真
犠牲者のマグショットとトゥール・スレンにあったのと同じ写真


しばらく回っていると、1人の青年がカタコトの日本語で話しかけてきた。
にこやかに「ここには『だるま学校』という日本人が作った学校があるので、案内したい」という。
多分最後に寄付を求められるパターンだろうと思ったが、案の定、立ち去ろうとすると大声で呼びとめられ、名簿のようなものを差し出された。
「子供たちに文房具を買います」と話す。

仕方なく帰りのバイタク代にと思っていた6,000Rのうち半分の3,000Rを渡す。

しかしその額では納得いかない面持ちだったので、イラっときてそれでも鉛筆くらいは買えるはずだと言って行こうとするが、お礼の代わりにまた大声で"Wait!Wait!"と大声を上げる。

1口ナンボか知らないが、寄付される側がレイズを要求する寄付にいささか気分を害し、キリング・フィールドを後にした。

出口にいたバイタク・ドライバー何人かに3,000Rで街の中心まで行くか聞くと、4,000Rだと言う。
米ドルも使えるのだが、その時は$100札しか持っていなかったので、やむなくまた歩いて帰ることになった。

が、さすがにしんどくなって路上で休んでいたところで、1台のバイタクが通りかかり、乗ってくか?と声を掛けられた。
2,000Rでいいなら、と試しに吹っかけてみたらどの道市街に戻るつもりだったのか、すんなりいいよ乗りなと言う。


中華レストランに入り、遅めの朝食兼早めの昼食。
大分汗をかいたので塩っけのあるものを欲していたため、ワンタンのスープまできれいに平らげた。

宿に戻り荷物をまとめ、11:30にチェックアウトし、宿代$6とプノンペンまでのバス代$6を払う。


Day7

定刻通りプノンペンに向かうバスは出発し、これで今回の旅も折り返し地点を過ぎたことになる。

また6時間の道のりをバスに揺られて過ごすことになるが、行きと違ってバスはガラガラで、1人で2シート独占しても全然お釣りが来た。

後ろの席に日本人バックパッカーと思われる男子2人組がいて、「日本人でしょ?」と声を掛けられたが、面倒くさかったので、「ええ」と軽くうなずいてかわし、本に目を落とした。

往路と同じく、途中2回パーキングで休憩を取る。

カンボジアの車窓から
車窓から日没前のカンボジア
※クリックで拡大



予定より若干遅れて19時にプノンペンに到着した。すでに日は落ち、軒には灯りが灯っている。
宿は前回と同じキャピトル・ゲストハウスに取ることにした。

バス降り際にさっきの日本人の1人に話しかけられ、「どこに泊まるの?なんなら案内してよ」と頼まれる。
いやもう目の前の建物がゲストハウスだよ、と告げると「え?入り口まで連れてってよ」とさらに頼まれる。

若干わずらわしかったが、どうせ自分も泊まるので一緒にフロントまで行く。

さっさとシングルの部屋を決め、じゃよい旅をと去ろうとすると「一緒に飯食おうよ」と誘われた。
・・・この人距離の詰め方早いな、と思うがじゃそうしましょうという話になり、待ち合わせ時間を決める。

部屋に荷物を置いてから、2人の部屋を訪れ、連れ立って前回ジェフリーと食事をしたレストランに行く。


てっきり2人連れで日本から来たのかと思えば、どこぞやのゲストハウスで知り合って以来、宿探しに便利なので2人で回っているだけだという。

ちなみに話しかけてきたのは全て年長のTくんで、同い年くらいかと思ったら自分より全然年上だった。前職を辞め、なんと今度から小学校の教師になるのだという。

もう1人のUくんは自分より全然年下で、いまどきの見た目からは想像つかないが、鍼灸師をしているという。

そしてもう1人は俳優崩れでディレクターもどきの俺。


「最初やたらに避けてなかった?」とTくんが言うので、「だって自分なれなれしくて面倒くさかったもんだから」と正直に答える俺、「その気持ちなんとなくわかります」と続くUくん。
意外なほど、場は盛り上がり、例によって21時に店が閉まっても次に行こうかということになった。


やはり21時を回ったプノンペンは静まりかえり、ほとんどの店から灯りが消えた。

たった2夜の長だが、プノンペンについては自分が一番知っているので、それでもやっていそうなところに目星をつけて、街を歩いてみた。
ところが、大通りに出ても、主要な交差点に行っても店はほとんど開いていなかった。
仕方なく最初の夜に行ったマーケット前の屋台村まで引き返す。今は3人だからまだしも、1人で歩くのは「勇気」ではなく「無謀」であることを痛感した。

そこではぬるい缶ビールを煽りながら、それぞれの旅の目的などを話した。
Tくんは教師になるだけあって歴史にも詳しく、割とマニアックな話を振っても受け答えてくれた。
こういう知識だけではなく、それを裏付ける旅の経験も持つ先生に当たる生徒はラッキーだなあと思った。

そんな真面目な話は束の間で、男3人が集まれば当然、といった風に女の話、エロな話へとシフトしていった。


「ここの屋台のお姉さんもなかなかですよと」Uくんが言うので、チラ見するとなるほどお美しい。

オーダーにかこつけて話しかけると、以外にも自分より年上の33歳で、2児の母であったが、4年前に1人を亡くし、同時に離婚したとか。33歳、ということは前回書いた「失われた世代」に当たるわけで、慎重に聞いてみると、父上をポル・ポト派に殺されたそうだ。
もうカンボジア人の男はこりごりだと無邪気に話す彼女は素直に美しかった。


自分は明日の朝早くにサイゴンに発つため、カンボジアの夜はこれが最後となる。

思いがけない出会いにより、名残惜しさの残るハッピーなラストナイトとなった。

2008年07月27日

ベトナム・カンボジア紀行[午の巻]

第6日目(夜の部)

18:00、半日かけて回ったアンコール・ワットからシェムリアップの街へと帰途に着く。
自分と同じくアンコール・ワットから引き揚げてきた観光客の乗るバスやバイクタクシーの群れで街へと続く道路は混雑していた。

約20分ほどで宿に着き、まずは借りた自転車を返す。
お池にはまってさあ大変だったサンダルを洗い、シャワーを浴びた。普段の数倍はシャワーのありがたさを感じる瞬間だった。

夜のシェムリアップ

空腹を抱えて市中に取って返し、最初に見つけたレストランに入った。ビールとピザ、ヌードルを頼む。

客は自分1人しかおらず、20代前半くらいのウエイターと世間話をしてみた。いつか日本に留学したいと話す彼は、アリガトウ、ドウイタシマシテなどいくつかの日本語を披露してくれた。

何か日本語を教えてほしいと言うので、じゃこういうレストランに入った時は最初に「とりあえずビール」と言うんだよと教えた。
どういう意味か問われたので訳して伝えると、笑ってくれたので一応うけたみたいだ。

カンボジアにチップの習慣はないが、チェックの際にはかっこつけて$2多く載せ、「留学資金の足しにしてよ」と告げ、店を出た。

バーにて

適当なバーに入り、日記を付けながら明日からの予定をどうしようか考えた。
日本には4日後の朝、ベトナム・サイゴン発の便で帰るので、遅くとも明々後日の夜にはサイゴンにいなければならない。
サイゴンには陸路で帰れば行きと同じく最低2日はかかるが、シェムリアップにもう1泊することも可能と言えば可能だ。

今日1日足を棒にしてアンコール・ワットを回ったが、全てを網羅したとは到底言いがたい状況だった。

しかし、今日当初は来れるかもわからなかったアンコール・ワットを巡り、何より最後に傘を貸してくれた青年の厚情、その流れで見た息を呑む黄昏のアンコール・ワットの情景を想うと、これ以上何かを求めることは蛇足を付けることのように思えてきた。

結論として、明日朝一でツアーオフィスに出向き、バスのチケットが取れたらその足でプノンペンに戻ろうと決めた。


そうと決めると昨夜訪れたナイト・マーケットへと赴き、映画館で働く2人に別れを告げようと思った。

今夜もいるか定かではなかったが、行ってみると2人して自分に気付き名前を呼んで出迎えてくれた。軽く挨拶だけするつもりだったが、今日は例のクメール・ルージュ時代の生存者がいるよと言って引き止められた。

その人が来る間、横にある売り場を覗いてみると、ヘビ酒が並べられていた。買ってく?と一応聞かれたので、確実に検閲に引っ掛かるからと断っておいた。

受付の女の子に手を引かれるように映写室から1人の男性がやってきた。なんて言っていいのかわからないので、軽く自己紹介をし、握手を交わした。

彼は自分と同い年なので、丁度クメール・ルージュ支配が始まった年に生まれたということになる。貴重な同世代のカンボジア人であることには間違いない。
※子供を作るどころではなかったので、この世代のカンボジア人は極端に少なく「失われた世代」と呼ばれている。
が、案内してくれた2人とは違い、彼は日本から物見遊山でやってきた同い年の男に別段興味を示している様子はなかった。

言葉に詰まり、まずは昨日映画を観ましたと口火を切る。無理もない話だが、当時のことはあまり記憶にないんだと語り、父のことも覚えていないと言う。
つまりはクメール・ルージュ時代にご尊父を亡くされたということだが、これ以上何かを聞くのは心苦しかった。

最後まで大して深い話はせず、明日プノンペンに発つことを告げ自分から話を切り上げた。不安そうに見守っていた2人に「ありがとう」とできる限りの笑顔で伝え、ナイト・マーケットを去った。


誰かと飲みたい気分だったが、誰がいるわけもないので、まっすぐに宿に帰ることにした。

1軒のネットカフェの前を通りかかると、今思えば絶妙のタイミングで見覚えのあるスキンヘッドが見えた。
ジェフリーだった。

ヘッドセットを着けてSkype中だったようだが、肩を叩くと振り返り、アメリカ人の若者らしく"What's up"的な返答が返ってきた。どこに泊まっているのか聞くとやはり同じポピューラゲストハウスだったので、カフェテラスで待ってるからまた一杯やっか?と提案した。

宿のカフェテラスに着くと、10人くらいのグループが楽しそうに盛り上がっていた。

離れたテーブルに席を取り本を広げていると、前の席に日本人らしき男性が宿の人に何か相談していた。頃合を見てどこから来たのか聞くと大阪だそうだ。今日大阪から直接シェムリアップに着き、数時間前にここにチェックインしたばかりだと言う。今は宿の人にどうシェムリアップを回るのがいいか相談をしていたらしい。

自分のルートを聞かれたので、参考にならないと思うことを断った上で、自転車を借りて一気に駆け巡った話をした。逆に3日〜1週間もかけてみなさんはどこをどう回ってるのか質問してみた。

折角今日着いたんならちょっと乾杯する?とこじつけて一緒にビールを買いに出た。

さっきのネットカフェの前を通るとジェフがちょっとヘビーな感じで(多分彼女と)Skypeトークを続けていた。一言声だけかけたが、どうやら長引きそうだなと思った。

結局、その夜はジェフは現れず、これが最後になった。
しかし後日談として、忘れつつあった2ヵ月後に「来週東京に行くので会おう」という彼からのメールが届いた。


カフェテラスに戻り、テーブルに着こうとした時、「オキナワ」という単語が耳に入ってきた。
さっきのグループで声の方を振り向くと、それに気付いた1人が「日本から来たんだろ?だったらオキナワのすばらしさを教えてやってくれよ」と話しかけられた。

「いや、沖縄には一度も行ったことがないから」と言うが、なんやかんや話の流れで、自分たちもそのグループにジョインすることになった。
てっきり全員仲間だと思っていたが、実はてんでばらばらにシェムリアップにやってきた旅行者の集まりだった。

カナダ人カップル、スウェーデン人、ブラジル人、アメリカ人、南アフリカ人、カンボジア人、日本人2人、と実に国際色豊かなメンバー構成。
ここにオーストラリアが加われば五大陸が勢ぞろいしたことになる。

すでにテーブルの上にはビールの空き缶がバベルの塔のように積み上げられていた。

このミニ・パーティは、今回の旅で最もにぎやかなナイト・ライフとなった。
1つ面白かった話題を取り出すと、「自宅のドアにカギをかけるか?」というテーマ。

以下その結果
・かける:南アフリカ、ブラジル、アメリカ、日本、カナダ、スウェーデン
・かけない:カナダ、カンボジア


カナダが2つあるのは彼氏の方はかけないが、彼女の方はかけると答えたから。
この2人が今一緒に住んでいるので、何かとトラブルが絶えないらしい。

ちなみに、この話題になったのは映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」でカナダ人はカギをかけないって言ってたけど本当?と自分がカナダ人のNくんに聞いたため。Nくんは「俺は人を信じている」と語り、彼女は「あんたが田舎出身なだけでしょ」と切り返す。

絶対かける、施錠はもちろん窓と言う窓には鉄格子が付いている、とは南アフリカ人Oくんの談。

アメリカ(シアトル)やスウェーデンでは生体認証が進んでいると言うし、様々な鍵事情からわかるその国の治安や人間性、社会性は興味深かった。


しばらくしてカジノに行けばビールがタダだよという言葉に乗せられ、カナダ、スウェーデン、カンボジアが席を立った。
大阪から来たSくんも「明日早いんで」と言って帰っていった。

自分はジェフを待つため、もうしばらく粘ったが、1日の疲れから瞼が急激に重くなってきたので、1時ごろには部屋に戻って床に就いた。

結局理由つけてビール飲みっぱなしじゃん、と言われたらその通りだが、ともあれ1人旅の醍醐味が凝縮された夜であった。

ミニ・パーティにて
※大阪のSくんが帰国後に送ってくれた写真。左からアメリカ人、スウェーデン人、Sくん、俺。明後日の方向を向いているが、この旅で唯一自分が映っている写真。

2008年07月26日

ベトナム・カンボジア紀行[巳の巻]

第6日目(昼の部)

アンコール・ワット地図
アンコール・ワット遺跡群の地図

7:30には目が覚めた。
カーテンを開けると、1mほど置いてすぐ隣のビルの壁だったが、建物の隙間に漏れる陽光と身を乗り出すと見えるシェムリアップの朝の風景を見ると、ほんの1週間前大した計画もなしに日本を飛び出した割にはここまで来ちまったなあと感慨を覚える。

受付に下りて、$2で自転車を借りる。宿泊していることもあってかデポジットは取られなかった。
出発し、片道6kmの道のりを漕いでアンコール・ワット(Angkor Wat)へと向かう。

アンコール・ワットへの道

途中のチケットセンターで$20払い、1day ticketを購入。一般にアンコール・ワットを回るには3日は必要と言われており、割り得な3day ticketや1week ticketも売っていたが、シェムリアップに滞在できるのはせいぜい2日なので、選択の余地はなかった。(顔写真つきなので転売もできない)

アンコール・ワット外堀

少し進むとアンコール・ワットの堀にぶち当たる。堀に沿い西側に回って、アンコール・ワットの正面入り口前にある食堂で朝食を取ることにした。頼んだインスタント・ヌードルは$3.5とバカ高な上に激マズで、観光地プライス&クオリティ圏に突入したことを実感。
プラス食事をしていると、5、6歳の女の子数人の物売り攻撃に遭い、結局つぶらな瞳に負けポストカードセットを買った。

チェックを済ませ、まずはまさに王道のアンコール・ワット西側玄関から散策を始める。

西側入り口

堀を渡す石橋から門までが遠かったが、くぐるとシンメトリーの「山」の字型に配置された3つの寺院が現れた。

アンコール・ワット
※クリックで拡大

寺院を遠巻きに四角く囲う城壁には長い回廊があり、その壁にはいちいち見事なレリーフが施してあった。

回廊

寺院に入ると朝の太陽と急な階段に目がくらむ。寺院の中にはクメール・ルージュ時代に破壊されたと思われる無残な石像がごろごろと転がっていた。

破壊された石像

余談だが、クメール・ルージュは誇り高いクメール人の優位性を鼓舞していたくせに、マオイズムの影響で仏教を含む一切の宗教を禁止していたので、国中でクメール人の遺産である仏教建築物をことごとく破壊した。つくづくなんて稚拙なイデオロギーと自己矛盾に満ちた連中に政権を渡したものだと、頭部を失った石像を前に沸々と思う。

さらに余談だが、昔NHKの「プロジェクトX」でアンコール・ワットの修復には日本人のチームも参加していることを放送していた。
こうして見ると修復にはかなりの年月がかかりそうだが、今日もどこかでノミを穿っているのだろうかとふと想った。

仏塔

アンコール・ワットを出て、北のアンコール・トムの中心にあるバイヨン(Bayon)へと向かう。

バイヨンへの道

自転車での移動は自由・節約・エコロジーと3拍子揃ったナイスな選択肢だった。
普通はバイクタクシーを1日雇ったり、ツアーに参加してバスで回ったりするが、点在する遺跡群を「乗れー」、「降りろー」を繰り返して巡るのはそれだけでくたびれそうだ。移動距離の制約や体力的な問題はあるにせよ、何より自転車なら自分の足で回っている感があってよい。

バイヨン
バイヨン正面

四面像
有名なバイヨンの四面像。

次は東へ進み、タ・ケオ(Ta Keo)へ。

タ・ケオ寺院

この寺院は最も段が急で両手を使わないと登れないほどだった。頂上に着き息を切らせていると、アメリカ人のおっちゃんに「そんなにきつくはないだろう!」と笑われた。いやきついってマジで。

次に向かったタ・プロム(Ta Prohm)はある意味アンコール・ワットを象徴する場所かもしれない。建物に絡みついた大木の根っこが実に印象的である。

タ・プロム
※クリックで拡大

ここで、1組の日本人カップルを見かけたのだが、そのお話については次の「シリーズ突っ込みたくて」に譲る。


タ・プロムを出てさらに東に向かい、一本道をひたすら進む。
午後になり丁度暑さに耐えかねてきた折に、かつての王の沐浴池スラ・スラン(Srah Srang)が右手に見えてきた。

スラ・スラン池

「嗚呼、足を池に浸したらさぞや気持ちよかろう」と、フラフラと岸に下りて、サンダルのまま池に入ろうとした。
すると足を入れた瞬間、ずっぷりとぬかるんだ泥の中に足を取られる。なにを!と思って無理に歩を進めるが4、5歩が限界で、そこからは足首まで泥に埋まり、ついには足が上がらず身動きが取れなくなった。

「こいつはことだ」と事態を把握し、まずはバッグを岸に投げ、泥の中からサンダルをかき出した。冷静に先に着地点を決めてから一歩一歩岸へと戻る。

しかも冷たいと思っていた水はしっかりとお湯で、それはもうマンガのように汗が噴き出した。

何一つ得をせず、泥の衣をまとったサンダルを手に岸にたどり着く。最悪の気分だったが、転倒する、膝まで埋まるといった事態は避けられたのでよかった。そもそも何の病原菌や生物がいるともわからない池に不用意に足を踏み入れた自分が悪い。

一部始終を見ていたスペイン人のおばちゃんが「さっきの人も同じことになっていたので私は止めておいたの」とカラカラ笑う。


「教えてよ。」


プレ・ループ

プレ・ループ(Pre Rup)に着くが、余裕がなく、軽く眺めるにとどめる。

次のタ・ソム(Ta Som)で水を買って休憩。
寺院の入り口をくぐるが、すでにほとんど寺巡りに飽きつつあったので、帰りしなのポーランド人に「何があった?」と尋ねると、「こんなんあったよ」とデジカメで木の根が絡まるお堂の写真を見せてくれた。
「いいね。でもこの写真で満足したわ」(Cool. But now I'm satisfied)と話し、奥まで行かずに彼と門まで引き返す。

「アンコール・ワットを見るには最低3日は必要」と言うが、3日もいたら確実に飽きると思うのは自分だけか。(修学旅行の寺巡りと同じ)
確かに1日で、というのはかなりの強行軍だったし西側には一切足を延ばせなかったが、せいぜい2日もあれば十分な気がする。

次のネアック・ポアン(Neak Pean)はほぼやっつけで回った。

顔のないレリーフ
ネアック・ポアンの顔の削られたレリーフ

ここを見ればほぼ一周したことになるプレア・カン(Preah Khan)は、広くて見ごたえがあった。修復の手が回っていないのか、状態は今までの寺院の中で一番悪かった。

プレア・カン

プレア・カン内部

こうして1周してバイヨンまで戻ってきたが、もう半周してスラ・スランの手前を南に下りれば丁度東側からアンコール・ワットのサンセットが見れるはずだと思い、意を決して自転車にまたがる。
今思えばバイヨンを南下してぐるっと堀を回った方がはるかに効率的だった。

しかも、スラ・スランを折れてアンコール・ワットへ向かう道は砂利道で、俺のボロチャリで行くには相当ハードだった。途中あまりにおケツが痛すぎて立ち漕ぎをしていたら、ガラガラッ!といやな音がしてチェーンが外れた。やれやれと直しにかかると、フレームに日本語で名前が書いてあることに気付く。Youもはるばる日本から来たのか、となんとなく親しみを覚えた。

かような苦労を経て、もう少しでアンコール・ワットというところまでたどり着いた。時間的にももう少しで日没だ。

ところが、あと橋を渡ればアンコール・ワットというところで突然スコールが降り出した。
雨宿りする場所もないので仕方なく、か細い木の下で身を小さくしていた。止んでくれないと日が沈んでしまうなあとため息をつくが、雨脚は一層強くなり、もはや木陰では防ぎようのないスコールに叩かれた。


すると5mほど前に停まっていたセダンから青年が降りて、トランクをがさごそと物色し始めた。
「ああ、ずぶ濡れだよ」と思っていたら、青年は1本の傘を取り出し、何も言わずに自分の前に差し出した。

足元から突き上げるように嬉しさが喉元までこみ上げ、ろくにお礼を言う間もなく、彼は運転席へと戻っていった。


胸いっぱいの幸福感に包まれ、もはやサンセットなどどうでもよくなった。


10分ほどでスコールは小雨になり、小さくて大きな親切に感謝して傘を返し、短くて濃い交流の証に握手を交わしてその場を後にした。

幸いなことに日没にはギリギリ間に合い、前書きでも掲載した以下の風景を目の当たりにした。

サンセット
※クリックで拡大

その感動がひとしおだったことは言うまでもない。

こうして生涯記憶に残るだろう半日を終え、雨上がりの薄暮の中、街に戻るべく再びペダルに体重を乗せた。

2008年07月25日

ベトナム・カンボジア紀行[辰の巻]

第5日目

Day5

ジェフとの語らいから一夜明け、朝がやってきた。
今日はアンコール・ワットの街、シェムリアップに移動するため、半日をバスに揺られて過ごすことになる。
出発までは、まだ2時間ほど余裕がある。

夜の早さと引き換えにプノンペンの朝は早い。通り沿いの店は軒並みシャッターを開け、営業を始めていた。

朝のプノンペン

一昨夜、おっかなびっくり訪れたマーケットまで足を伸ばす。
中は食べ物から衣服、家電までごっちゃごちゃに様々な物が並べられていた。

クメール・ルージュ支配の時代には貨幣経済が廃止され、主に米との物々交換が基本だったので、当時からは考えられない光景だろう。
SONYやHYUNDAIの電化製品を横目に見つつ、自分はカンボジアに対して"内戦の爪あと残る"イメージが強すぎだったんだなあと思う。

思えば30年という時間はある程度経済を立て直すには十分な時間で、日本だって戦後30年、つまり自分が生まれた頃には戦争の面影は見事に払拭されていた。

もちろん日本の驚異的な復興のスピードは特異であり、カンボジアの現状と並べて比較するには大雑把にもほどがあるわけだが。


バスで食べるようにとサンドイッチと水を購入し、まだ全然時間があるので、ゲストハウスの裏通りの朝市も覗いてみた。
そこに売られていたのはむき出しの魚や肉、野菜などの生鮮食品。わんわんとたかるハエの群れを見て、食堂で運ばれてきた皿の上を舞うハエを追うことの無意味さを感じた。

ゲストハウスに帰り、1階の食堂でヌードル・スープで簡単な朝食を済ませた後、部屋に戻って荷造りを整え、10時にチェック・アウト。
バス乗り場へと向かう。

※ちなみにプノンペン→シェムリアップのバス代は25,000リエル。市中では$1=4,000Rで等価交換できるので、日本円にすると600円くらい。距離と時間を考えるとかなり安い。

バスは少し遅れて10:30にシェムリアップに向かって出発した。

道中はもはや見慣れた感のあるカンボジアの田舎風景が延々と続いていた。

プノンペン→シェムリアップ

途中パーキングで2度の休憩を挟んで、バスはひたすら北へ西へと進む。
特にやることはないので、本を読んだり、日記を付けたり、前の席から顔を出す男の子にちょっかい出したりして過ごした。


― そろそろ腰や膝が限界に達してきた16時にシェムリアップに到着した。
最初「え?ここで降ろされるの?」という簡素な場所で止まり、乗客の半分以上がそこで下車したので焦るが、そのままバスは出発し、キャピトルツアーのシェムリアップ支店前で終着とあいなった。

キャピトルツアー前

ここでもまずは今夜の宿探しから始まるのだが、今回も特に迷うことはない。
事前の情報収集でバックパッカーにはポピュラーゲストハウスというそのまんまの名前の宿が人気があると聞いていた。
場所は南北に長いシェムリアップの最南端に位置し、バス停から1分もかからない距離にあった。

いくつか部屋を見てファン、トイレ・シャワー共同、窓付きの部屋に決めた。1泊$3というお手頃価格。

受け付けの青年は実に親切で、地図がほしいというと無料の地図をくれ、丁寧に現在地と中心街、そしてアンコール・ワットへの行き方を教えてくれた。見るとアンコール・ワットは10kmに満たない位置にあるようだったので、翌日はまた自転車を借りて行くことを考えた。
そう告げると、おあつらえ向きに宿でも自転車を借りれるという。完璧だ。

部屋に荷物を下ろすとすぐに街に出てまずはシェムリアップ川(Siem Reap River)のほとりでぼんやりと一休みする。

Siem Reap River

日が落ちてきたので、街の中心に向かい、適当な屋台を見つけ、席に着いた。
腹が減っていたので、麺、チャーハンそしてビール(大)を頼んだ。

食事をしていると隣の席に座っていた初老の白人女性が「タバコ吸っていい?」と聞いてきたので、どうぞと言うとその流れで「どっから来たの?」トークに展開した。
その女性はドイツから1人でやってきたそうで、普段は山歩きが趣味なのだそうだが、体力的にきつくなってきたので今回はフラットなところを選んでみた、と話す。とはいえ、カンボジアに女性1人旅とは、大した度胸だと思う。

どのみちビール(大)は1人では多かったので、1杯すすめるとぐいと飲み干し、今度は私がおごると言って新たにビールを注文し、グラスに注いでくれた。
再び満たした1杯もみるみる空にすると、彼女は席を立ち、また1人になった。

夜のシェムリアップ

すっかり辺りは暗くなり、夜の装いになってきたが、さすがシェムリアップはカンボジア、いや世界でも名だたる観光地だけあって、アンコール・ワットから帰ってきた観光客でプノンペンとは逆に遅くなるほどにぎやかさは増してきた。

屋台を出て街を一周し、街の西端にあるナイト・マーケットに立ち寄ってみた。

ナイト・マーケット

中には土産物や服、絵画などが整然と並べれていたが、特に買いたい物があるではなし、店先を冷やかして回った。

マーケットの一番奥まで行くと、1枚の立て看板が目に留まる。
そこには「ポル・ポト、虐殺の歴史」と題した映画の上映スケジュールが書かれていた。当然興味が沸き、観てみようかと思うが、次の上映まではかなり時間がある。

映画館の入り口とおぼしき場所に腰掛けていた若者が近づいてきて「観て行きませんか?」と声をかける。観たいけど次の回まで待つのはしんどいから明日また来るよ、と話しリーフレットだけもらってその場を立ち去る。

ナイト・マーケットを出て、宿に向かって帰ろうかと思ったが、ふと明日また来れる保障は何もないんだよなあと思い、踵を返しまた映画館まで戻った。

さっきの青年は笑って、「明日じゃないの?」と聞いてきた。やっぱり待つことにした、と言うと、ベンチをすすめてくれ、どう見てもひまそうな彼と例によって「どこから来たの?」的な会話が始まる。

やはりひまそうにしていたチケット売り場の女性も「日本人は一杯くるけど、映画は英語とフランス語字幕だからかほとんどお客にはならないの」と会話に参加してきた。もっとも、日本人どころか周りには他に客らしい人は見当たらなかった。

ふと絵葉書と一緒に並んで売っている本の中に見覚えのある表紙が目に付く。戦争映画シリーズVol.11で紹介した「最初に父が殺された」の英語版とフランス語版だった。

おお、と思い、この本に背中を押されて俺は今ここにいるんだ、という話をし、言葉を選びながらクメール・ルージュ時代のカンボジアに興味を持ったいきさつを話した。

共感してくれたのか2人とも饒舌になり、あの時代の体験者がここのスタッフにいるから違う日だったら紹介できたのに、と惜しむ。

そんなこんなであっという間に上映時間になり、中に入る。
案の定、劇場は自分1人の貸切だった。


映画の大筋自体はすでに知っているクメール・ルージュの勃興と凋落についてだったが、農奴政策を始めて米を作りまくったけどソ連が安い米を大量に市場に流した結果米が売れず、おかしくなり始めた話などは興味深かった。また、前国王シアヌークの功績を称える要素が多分に盛り込まれていたのも特徴的だった。

約40〜50分の上映が終わり、受付の2人に別れを告げて宿への帰途に着いた。


今日は単なる移動日と割り切っていたが、思い返すと想像以上の異文化コミュニケーションがあったものだ。

2008年07月17日

ベトナム・カンボジア紀行[卯の巻]

第4日目

9:30に起床。
今日の目的は街の南西に位置するキリング・フィールドに行くこと。

11時にキャピトルからもバスが出るということなので、準備して1階に下りてみる。
ところが、今日はキリング・フィール行きのバスは出ないという。

どうしたものかととりあえずコーラを頼んで思案していると、隣の席に見覚えのある顔が。昨日同じサイゴンからのバスに同乗していて、トゥール・スレンでも見かけた人物だった。
どちらからともなく話をしてみると、アメリカ人青年の彼ジェフリーも今日キリング・フィールドに行くのだという。

へえ、どうやって行くの?と尋ねると自転車を借りて行こうと思うとのこと。
なるほどその発想はなかった。

聞けばすぐそこにレンタルサイクル屋があるらしく、なんなら一緒に行かないかと提案された。
断る理由は何一つないので、そのプランに便乗することにした。

ちなみに、彼はスペルこそ違うがバーチャファイターのジェフリー
Jeffry
と同じく口ひげをたくわえ、レスラー体系のところまでよく似ている。
リアルジェフリーはスキンヘッドなので、ぱっと見はちょっとおっかない。

その足で一緒にチャリ屋に行き、$1とデポジット$25を払って自転車を借りた。

すぐに出発し、大通りを南下してキリング・フィールドに向かう。

Road to Killing field
※前を行くスキンヘッドの人物がジェフリー。

炎天下の中、土埃と排気ガスにまみれ、まあよく漕いだ。

川を渡る時に迂回路を通った以外は特に迷うこともなかったが、それにしても暑い。
照らす太陽は肌を焼き、汗は滝のように滴り落ち、30年前同じ道を移送された犠牲者たちのことを想う。

少し行くと辺りはすっかり田園風景となり、交通量も極端に減る。

何の目印もないので、途中不安になりつつも15kmほど走ってようやく看板を見つける。
先に休憩しようということになり、手前にある露店で水分補給しクールダウン。

なお、キリング・フィールドとは、クメール・ルージュ時代にトゥール・スレンからたくさんの囚人が連行され、処刑された言わば刑場跡地である。
当初はトゥール・スレンの敷地内で死体を処理していたが、間に合わなくなり、急ごしらえで作った処刑場である。

クメール・ルージュのイデオロギーは「農村社会への回帰、都市型帝国主義の破壊」だったので、国民は地方へと移住させられた。
従って、プノンペン近郊のここはキリング・フィールドの1つに過ぎず、地方地方にも同じようにキリング・フィールドと呼ばれる場所が点在している。

慰霊塔

門をくぐるとすぐに慰霊塔があり、そこには掘り出された一部の頭蓋骨や衣服が山と積み上げられていた。
恐ろしい光景だ。まずは、献花し合掌する。

慰霊塔内部

キリング・フィールド

敷地内には至るところに直径5mほどの穴が掘られており、囚人たちは穴の淵に目隠ししてひざまずかされ、後ろから斧で頭を叩き割ったり、棍棒で殴り殺された。
銃を使わなかったのは銃弾を節約するためだったという。
ゆえに、時にはまだ息があるうちに生き埋めにされたというから悪寒を禁じえない。

処刑風景
※この絵はトゥール・スレンに展示されていたものだが、キリング・フィールドにも同じものがあった。

↑のように、あちこちに処刑方法を描いた絵が展示されていて、1本の大木の前には両足を持って幹に打ち付けられて殺された赤子の絵など、むごいものがいくつもあった。

殺戮の木
※看板には「処刑者が幼児を打ち殺した『殺戮の木』」と書かれている。

もしもこれらのことを知らずに訪れたとすれば、実にのどかな田園地帯なのだが、今自分が立っている足元でかつて絶望とともに何千、何万のカンボジア人が絶命したことを想像すると、興味本位で訪れ、あまつさえ写真撮影などしている自分に激しい罪悪感を覚えた。

キリング・フィールドの外

なお、敷地はフェンスで仕切られており、フェンスの外には近所の子供たちが「写真撮って」と言っては、本当に撮ると$1請求するという商売をやっていた。



1時間ほど周ってから、入り口付近でジェフリーと落ち合う。
木陰のベンチに腰掛け、しばし2人で話し込んだ。

最初は俺ペースで、3年半の悪夢が始まった年に生まれた自分が、いつの日かここを訪れたいと思っていたことや、クメール・ルージュ時代の悲劇は冷戦時代の東西軋轢の皺寄せだと思うという自論を語ると、一瞬面食らったようだったが、彼も彼で思うことをぽつぽつと話してきた。

聞くと、彼はベトナムの首都ハノイからインしてサイゴンに下り、カンボジアを抜けてタイのバンコクからアウトする予定だという。
つまり、プノンペンに寄ったことに深い理由はなく、かつて民族大虐殺があったことも知らなかったという。

思えば、観光スポットの少ないプノンペンで観るところと言えば自然トゥール・スレンやキリング・フィールドは選択肢に挙がるが、自分のようにここに来ることを第一義とし、特別の感情がある人は少数派なのだ。

ただ、彼はプノンペンを素通りして、シェムリアップに抜ける(または逆)バックパッカーが多い中、プノンペンに寄ってよかったと言う。こうしてトゥール・スレンやキリング・フィールドを訪れたことで、全く知らなかった惨劇の歴史を知ることができたからだと。
また、昔のことはわからないけれど、"物乞い"のようにフェンス越しに写真1枚で$1をせびる子供たちがいるこの国の貧困も大きな問題だと語る。

※観光客は普通、観光客相手の商売をする人にしか関わらないので、それだけ見て国の常識であると考えるには相当な早合点なのだが、折角乗ってきたようなので、まあそうだねくらいに答えておいた。

ついで言うと、少し古いデータだがカンボジア国民の平均年収はおよそ$300〜$400。ということは1日1$前後の収入ということになる。となると、ジェフ曰くの"物乞い"はうまくいけば大人の数倍稼ぐビッグビジネスだ。そしてそれは子供のうちにしかできない。
南北問題、より砕いた言葉で言うと格差社会が深刻なのは事実だが、平等を求めた結果が悲惨な歴史を生み出した共産主義にたどり着いたことを考えれば、単純に同情するのはやはり早計である。



・・・と、重い話に小1時間費やしたが、住所交換しようという儀式の段になった。

彼の苗字が"Miller"だったので、「へえ、俺昔L.Aいた頃、Mr.Millerってニックネームだったんだよね」と言うと当然「なんで?」と聞かれる。
「ビールが好きだから」と答えると、彼は弾けるように笑い、一気に場の空気が和んだ。

「じゃあ、今夜一緒に飲もうよ俺も好きだから」という話になり、揃ってまた自転車でプノンペン市街に戻った。

ロシアンマーケットで一緒に昼食を取った後、ジェフリーと一旦分かれ、自分は宿に戻り、明日のシェムリアップ行きバスのチケットを買った。

シェムリアップといえばアンコール・ワットで有名な遺跡の町で、カンボジア最大の観光地だが、自分の目的は別にあったので、「行けたら行こう」というレベルだった。結果、すでにここでの目的は達したと判断したので、足を伸ばしてみることに決めた。

部屋に戻ってシャワーを浴びて生き返り、折角自転車があるので、他の場所にも行ってみることにした。


ドーム状の形が印象的なセントラル・マーケット、
セントラル・マーケット

王宮、
王宮

トンレサップ川(Tonle Sap River)、
トンレサップ

独立記念塔、
独立記念塔

と周って、一通り満足したので自転車を返し、デポジットの$25を受け取る。


部屋で小休止してから、待ち合わせの時間より早めにレストランに降りるとすでにジェフがいて食事をしていた。
すぐにジョインして、約束通りビールで乾杯した。

そこでの話題は、米大統領選挙について、お互いの未来像、果ては結婚観まで全く一貫性がなかったが、とにかく閉店の21時を過ぎるまで話し込んだ。

見た目こそおっかないが、ジェフは実に素直でいい青年だった。バスの時間こそ違うものの、共に明日シェムリアップに発つので、あっちでも多分会うだろうね、という話をしてお互いの部屋へと戻った。

明日は一ノ瀬泰造(戦争映画FALL IN! Vol.10参照)が命を賭してまで訪れたかったアンコール・ワットの街へと向かう。そこに自分の意志一つで赴ける自分はやはり恵まれている。

2008年07月16日

ベトナム・カンボジア紀行[寅の巻]

第3日目

Day3

昨夜は海外必携品の1つ「耳栓」が大いに役立った。
DさんとNくんが揃ってイビキの協奏曲をフルコーラスで聴かせてくれたからだ。

サイゴンの朝
※前日と同じ場所から朝のサイゴン。

何はともあれ5:40に起床。
身支度を整え、寝ているDさん、Nくんに無言の別れを告げ、宿を出る。

まずは朝食に前日Dさんに薦められたサンドイッチ屋台へ。

ここはかなり声を大にしたいのだが、
ベトナムのパンは相当うまい。
かつてフランスの植民地だったことが影響しているようだが、とにかく日本円で60円ほどのサンドイッチは格別にうまい。

フランスパン(バケット)に野菜やハムやチーズなどの好きなトッピングを挟むことができ、何よりパンそのものが外はカリッ、中はフワッな感じで完璧。
今後ベトナムを訪れる方は、日本でも食べられるフォーや生春巻きより是非パンを食すことをオススメしたい。

朝食以外にバスで食べる用も購入し、バス乗り場へと向かう。

シン・カフェ前

バスに乗り込むと隣はマレーシア人の青年。
カンボジア→タイと渡ってマレーシアに帰るのだと嬉しそうに語る。
昔、自分もマレーシアを縦断し、最南端のジョホールバルまで行ったことがあるよという話をするとさらに嬉しそうに話をしてくれた。

バスの運行は極めて順調で、ベトナムとカンボジアの国境には予想よりはるかに早く10時ごろには到着した。
ここでカンボジアのビザを取得する。これもあっさりすぎるほど簡単だった。

ベトナム-カンボジア国境
※手前がベトナム、奥がカンボジア

国境を越えたすぐのレストランで20分ほど休憩した後、カンボジアの首都プノンペンに向かって出発。

カンボジア国旗
※翻るカンボジア国旗。ついにやってきた。

途中、トンレサップ湖から注ぐ川を渡るため、バスごとフェリーに乗り込み渡河。

トンレサップ河畔
※プノンペンへ向かう人、物売りなどでごったかえすフェリー乗り場付近

後は、転寝を繰り返しているうちに13時前にはあっさりとプノンペンに着く。
ここでマレーシア人の彼とは別れることになった。

プノンペン市内

さて、まずは今日の宿を探さねば、という新しい街での最初の仕事が始まるのだが、今回はその手間が全く必要なかった。
なぜならバスで降ろされたキャピトル(Capitol)というツアーオフィスは、サイゴンのシン・カフェと同じくらい有名なバックパッカーの溜り場で、ゲストハウスも併設しているからだ。

2階のゲストハウス受付に回り、まず部屋の種類を聞く。
ドミトリーはなく、部屋は全てシングルかダブル。シャワーは全部屋についていて、エアコン付きかファンのみかで値段が違う。

いくつか部屋を見せてもらったが、窓付きで入り口に近くて便利そうなエアコンなしの1部屋を選んだ。
値段は交渉の余地なしで一律$5。
料金はシングルだったが部屋はダブルで、サイゴンに比べるとでこの値段はかなりお得感があった。

さてと1階に下りて、米ドルを現地通貨のリエル(以下R)に両替。

こんなにスムーズに来れるとは想定していなかったので、明日の予定にしようと思っていた場所に今からでも行けるな、と思い立つ。

その場所とは、今回の旅の最大の目的地の1つ
トゥール・スレン博物館。
通称、虐殺博物館である。(Tuol Sleng genocide museum)


歴史的背景についてはごっそり、次回の戦争映画 FALL IN!! Vol.11にバトンを渡すが、今から32年前、自分が生まれた年と同じ1975年に始まったカンボジアの惨劇を、実際にカンボジアに行ってこの目で確かめたいとずっと切望していた。

そして、その象徴的な場所がトゥール・スレンであり、翌日に訪れたキリング・フィールドである。


以下、日記に書いた内容をまま転載。

キャピトルから歩いて20分、少し迷ったものの14:00にはS-21に到着した。
※収容所だった頃の呼び名。
元々学校だった場所を利用して収容所にしていただけに、閑静な住宅街の中に悄然と存在する。ぱっと見は確かにただの学校だが、30年前の惨劇を頭に描くと異様な負のオーラが立ち上っているようにも感じる。

中は4つの建物に分かれ、尋問所だった場所、被害者の写真が並べられている場所、レンガで独房に仕切られた拘置所、写真展示室に分類される。中庭には拷問器具だった鉄棒や水がめが当時のまま置いてあった。
ところどころ血の染みが黒ずみとなって残っていたり、犠牲者の頭蓋骨が展示してあったり、昼間であってもとても1人ではいられない場所だなと畏怖を感じた。

15時から3階で、ビデオが上映された。
※悲劇に巻き込まれ命を落とした1人の女性に焦点を当てたドキュメント映画

17時の閉館までめいいっぱい見学し、ビデオのVCDも購入した。


以下追記の中に、トゥール・スレンで撮影した写真を収めた。
(ショッキングな内容が含まれるため参照される場合はご注意ください。)


トゥール・スレンで少しでも多く時間を取るために、昼食をスキップしたのでキャピトルに戻り、チキン・ヌードルを頼む。
が、たった今見てきたあれやそれが頭を去来し、味も素っ気も感じなかった。

部屋に戻ってベッドに横になると、心身ともに疲れていたのかそのまま夢の中に転げ落ち、目が覚めるともう21時になっていた。


急いで夕食に出るが、日中あれだけ騒々しかった店々のシャッターは全て下り、びびるくらいの闇と静寂に包まれていた。

知らなかったが、プノンペンの夜は早い。
商店は19時ごろに、食堂なども21時には閉まる。その上、コンビニらしきものも見当たらない。

とはいえ、何も食べずに寝るには空腹が過ぎるので、意を決して街を歩く。
昼間にトゥール・スレンに行った名残りで精神的に敏感になっていたことも助け、夜の街にいる人々が非常に怖く感じられた。

数ブロック歩くとマーケットがあり、その前に屋台が軒を連ねていた。

ここなら大丈夫だろうか?となるべく辺りを見渡しやすい場所を選び席を取る。
メニューをもらうが、そういえばまだまともにカンボジアのローカル食を食べていないので、何がいいのやらさっぱりわからない。

無難だろうとお粥と、隣のテーブルで食べてる麺がおいしそうだったので、それも指差しオーダーすると、しばらくしてなぜか2種類のお粥が運ばれてきた。
・・・ふっと心の中で苦笑がこぼれると共に緊張の糸がほぐれ、図らずも微妙に味の違うお粥の食べ比べをすることとなった。

店の人が片言の英語で話しかけてきたので、話をしているうちに夜のプノンペンにも慣れてきたようで、考えようによっては静かでいいなとすら思えてきた。

さすがにお粥だけでは物足りなかったので、帰りにソーセージらしきものとザワークラウトらしきものも買って部屋に戻った。

シャワーを浴び洗濯をして、長くて濃ゆい1日を締めくくった。
 
 

追記:トゥール・スレン博物館にて(ショッキング注意)

2008年07月14日

ベトナム・カンボジア紀行[丑の巻]

第2日目

8:30に起床。
昨夜は蚊の襲来で幾度となく起こされ、よくは眠れなかった。

すっきり晴れた天気のもと、サイゴン最大の市場ベンタイン(Ben Thanh)マーケットに足を伸ばす。

Ben Tanh Market

大きな屋根で覆われたマーケットの中はほの暗く、衣服や雑貨から生鮮食品まであらゆるものが置かれていた。
中にある食堂で米で作った麺、フォーを頼み、朝食にする。

市場の中


その後サイゴン川に向かって南に歩くが、バイクタクシー=バイタクのおじさんがとにかくしつこい。普通に「乗ってかない?」と言われれば「乗ってかない」と断れるのだが、彼らは彼らで手練手管があるらしく、「ラララライ♪ラララライ♪」と藤崎マーケットのメロディで近づいてくる人や、「乗ってかない」というと日本語で「そんなの関係ねえ!」と強気で来る人もいた。(本当)
誰か知りませんが、余りそういうことを教えないように。

Sai Gon river

リバーサイドに辿り着き、ファンタを飲んでいると、さっきのラララライ♪のおじさんがまたもや現れたので、「ごめんなんだけど、俺はあなたの街を脚で体験したいわけよ」というと「お前は賢い」と言って去っていった。


De Tham St.

宿に戻りがてらデタムにあるツアーデスク、シン・カフェ(Sinh Cafe、バックパッカーには超有名)に寄り、明日のプノンペン行きのバスを予約する。192,000Dなので当時のレートで1,200円くらい。安い。
カンボジアのビザも国境で割と簡単に取れると言う。

12時前に宿に戻りチェックアウト。サイゴンにもう1泊するので、目星をつけていたゲストハウスに移ることにした。
バックパックを担いでゲストハウスに行き、案内されたドミトリーの部屋の中から適当なベッドを選んでそこに決める。

荷物を置いてすぐに街の北東にある歴史博物館に行くことにした。
地図を見ると歩けない距離ではなかったので、徒歩を選んだが、計算外の暑さの中結構しんどかった。
途中くたびれて、石段に腰掛けようとしたら、石が焼けていて飛び上がった。

気持ちだけでも涼しく、ということで「津軽海峡冬景色」を口ずさみながらサイゴンの街を北へ北へと闊歩する。

National History Museum

そうしてようやく辿り着いた博物館はお昼休館中で、さらに30分時間をつぶす羽目になる。
13時になり中に入ったが、それほど目を見張るものはなかったが、どこかの日本の団体さんに紛れてガイドの解説をちゃっかり横聞きしてなるほどな情報を仕入れた。


次に向かうのは本日のメイン、戦争証跡博物館

場所は宿と歴史博物館の中間地点にあるのだが、あの距離をまた歩くのは懲りたのでバスに乗ることにした。
ところがこのバス、ローカル仕様だから仕方がないものの、どうやって利用するのかわからない。

とりあえず来たバスに乗り、War Museumに行く?と聞いても要領を得ないので、まあいいやと思って乗ると惜しいところで左折し、見当違いのところで降りる。結局同じくらいの距離を歩くことになった。

War Remnants Museum

そうして辿り着いた戦争証跡博物館。(War Remnants Museum)
本館は3階建ての立派な建物なのだが、中に入ると改装中らしく1階しか開放されていなかった。
それでも十分すぎるほど訪れる価値はあった。


本館は主に、アメリカ軍に殺されたベトナム人の凄惨な写真や枯葉剤の影響で奇形になった人の写真、使用された銃火器類、さらにはホルマリン漬けにされたシャム双生児の遺体がそのまま展示されていた。

ここにその写真を掲載するのはためらわれたので、代わりに写真の下に書かれていた日本語の注釈をいくつか紹介したい。


(以下原文ママ引用)
「現代的の武器や手段でインドシナ半島にあるアメリカ軍は最悪な絶滅戦争を起こし、国際条約や基準を大胆にも無視した。
・・・。侵略戦争は国際社会ですでに犯罪行為とされている。(以下略)」

(Hans Goran Frank, インドシナ半島のアメリカ軍戦争犯罪国際調査委員書記長)

「この女の子の父親がアメリカ軍に逮捕された。彼女はアメリカ軍に『お父さんを殺さないで!』と叫ぶ。」

「アメリカの遠征軍はベトナム人を下等動物とまでみなすことになった。彼らは枯葉剤をまくことは昆虫を殺すDDT剤をまくことと同じように犯罪行為と認識しなかった。ベトナム人は所有権や生存権などなにひとつの権利をも持っていないと彼らがみなした。(以下略)」

「アメリカ人兵士は射殺されたベトナム人兵士の死体の一部を持っている。この人は人間か鬼かと戸惑っていた。」

最後の一文は日本人報道カメラマン、石川文洋氏の「ベトナム解放戦争」から写真と一緒に展示されていた。
その写真は最も正視に堪えない1枚で、ナパーム弾で吹き飛ばされたベトナム人の死体の一部をアメリカ兵がひょいと持ち上げているものだった。

※帰国後、「ベトナム解放戦争」を探したが、どうやら入手困難のようだった。が、同氏の著書「戦場カメラマン」(朝日文庫)は図書館で見つけることができた。上記の他にも数々の命がけな写真に改めて衝撃を受けた。

※耐性のない方は止めた方がいいが、現実に目を向ける勇気のある方は以下リンクにて展示写真の一部が閲覧可能。

Pictures of American (Vietnam) War Remnants Museum


また、本館より幾分簡素な建物の別館があり、そこには世界中の有名戦場カメラマンの写真が展示されいた。その委細については次回の戦争映画 FALL IN!! Vol.10へと譲ることにする。


Cultural Park

歩いて昨夜訪れたTao Dan公園で小休止。昨夜に続いてフェスティバル的なものが開催されていた。

宿に戻り、荷物を整理していると同部屋のスリランカ人Dさんが話しかけてきた。
この暑いのにスーツを着て妙に身なりがきれいな彼はビジネスで訪れているとのことで、彼これ2ヶ月ほどここに滞在したが、あと1週間で母国に帰るという。

それとはない話をしているとDさんの上のベッドで寝ていた白人青年がのそのそと起き出し話に加わった。白人のNくんはウクライナ出身の典型的なバックパッカーでカザフスタン、中国、ラオス、カンボジアと旅してここに至ったのだと言う。

色々話し込んでいたらDさんがめちゃくちゃ安くビールが飲めるところがあるから行かないか、という話になった。
Nくんも自分も快諾し、揃って街に出た。

5分ほど歩いたその店は店と言うより屋台に近かった。
少し離れたテーブルに落ち着き、さっそくDさんはビールを頼みにいくが、なにやら店の人ともめている。
なんだなんだと聞きに行くと、ビールの価格が前より全然高いのだという。

思うにその店はインフレの波に他より遅く対応したのだろう。
「俺はこうして仲間を連れてきてしまったんだ。なんとかしてくれ」と食い下がるDさんだったが、まあまあと割って入り、「どうだろう、1杯目は俺がみんなの分を出すから後はそれぞれ出すことにしようよ」と言ってなだめ、席に着く。
Dさんはまだ不満そうで折角1杯おごったのに、終始納得いかない感じだったが、これも国際協調と思い、ビールと一緒に飲み込んだ。

自分と逆ルートを辿るNくんはカンボジアの安宿やよかったポイントなど色々有益な情報を教えてくれた。


店を出て、まだ小腹が空いていた自分は彼らと別れ、路地裏の屋台でフォーを頼んだ。

同じテーブルに座っていた男性はベトナム語(と思われる)で注文していたのでてっきり中国系の方かと思っていたら、「日本人ですか?」と話しかけられた。はいと答えると、よくベトナムを訪れるのだというその日本人は色々と現地情報を教えてくれた。
さらに「なんでベトナム選んだの?」と聞かれたので素直に経緯を話すと、ベトナム戦争の後についても来るたびに変わるこの国の状況について詳しく語ってくれた。
(どれだけ早い速度でインフレが進行しているかを教えてくれたのもこの人)

宿に戻るとすでに電気は消え、DさんもNくんも寝ていた。
明日は早朝のバスでカンボジアに発つので自分もそそくさと寝ることにした。

Guest house
※宿のバルコニーから撮った1枚

2008年07月13日

ベトナム・カンボジア紀行[子の巻]

第1日目

Day1

成田→台北と経て、約7時間のフライトの後にベトナム、タンソンニャット国際空港に降り立つ。

実は今回の目的はカンボジアの首都プノンペンを訪れることにあり、ベトナムに降り立ったのはいわば最初の構想とは異なる。


遡ること30時間前 ― なぜベトナムを寄港地に選んだかというと
単純にその方が安いから。

直接カンボジアに入るより、ベトナム最大の都市ホーチミンから陸路カンボジアに入った方が20%ほど安い。(当時)
もっとも本数の少ないプノンペン直行便は取りたくても取れなかったのだが、いずれにしても陸路国境を越えるというロマンも助け、ホーチミン行きのチケットを買った。

チケットを買ってからネパール紀行のバディ、ソウ兄に電話する。
※ソウ兄はかつて香港からポルトガルまで行く「ザ・深夜特急」の旅をしている。

確かにバスでカンボジアに渡れることを確認し、ホーチミンのバックパッカー街についていくばくかの情報を仕入れる。

カンボジア入国にはビザが必要なので、本当は在日大使館で取得していきたかったが、前日でそれは不可能なので、(2営業日はかかる)現地でなんとかすることにした。

ガイドブックは持っていかないので、保険でホーチミン市内の宿の電話番号を2つと国境越えバスの手配が可能なツアーデスクの電話番号を控え事前の情報収集を済ませる。


― 後は残りの仕事を大急ぎで片付け、パッキングをして、ほぼ寝ずの状態で成田入りし、あれよあれよで冒頭へと繋がる。

なお、ホーチミンは旧名をサイゴンと言うが、未だに通り名としてはサイゴンの方が一般的なので、ここでもサイゴンと呼ぶことにする。


サイゴンへは16時ごろに着陸し、まずは空港内で市街のフリーマップを探す。
インフォメーションでバックパッカー街、デタム(De Tham)ストリートの位置を確認し、$40を640,000ドン(以下D)の現地通貨に替える。
空港の自動ドアをくぐると、熱帯特有のまとわりつく暑さと「待ってました」なタクシーの客引きに出迎えられる。

交渉して1台のタクシーを選び市街へ。

聞いてはいたが、サイゴンの交通の要は原チャリで、それはもう洪水のように市街に溢れている。
アジア諸国を回ると、トヨタよりむしろホンダやヤマハの2輪パワーに圧倒されることが多い。

デタムストリートには20分ほどで到着。
早速今日の宿を探すが、予想通りポン引きの「ドコイク?ヤスイヨ」洗礼を受ける。

とにかく自分の足で探そうと彷徨するが、なかなかこれという1軒が決まらない。というのもWEBで事前に調べた情報より30%ほど高く、うまく交渉がまとまらなかった。
※後で判明するのだが、ベトナムは経済発展とともに今急激なインフレに見舞われている。

それと絶対あると思っていたドミトリーが意外に少なく、あっても空きがない。旅の入口はドミでの情報収集が最適なのだが、当てが外れた。

デタムは南北に100m程度の短いストリートなので、往復しているとたんび同じポン引きの応酬をかわす必要がある。
段々面倒になり、じっとりとした暑さにも耐え難くなってきたので、最もよさげだった1泊$8のシングルに部屋を取る。
(ベトナムでは米ドルも普通に使える。)

すでに宿探しで疲労困憊し、寝不足も助け、荷を降ろすと小1時間ほど横になる。

Nguyen Thai Hoc

小休止後、街に出て、デタムの突き当たりファングーラオ(Phan Ngu Lao)通りからグエン・タイ・ホック(Nguyen Thai Hoc)通りに出て、北上。何ブロックか行くと、お祭りでもやっているのかのような随分にぎやかな音が聞こえてくる。

フラフラと誘われていくと、そこタオ・ダン(Tao Dan)公園では本当に何かフェスティバル的なものをやっていて、たくさんの人で溢れかえっていた。

たくさんのタイ料理やソーセージを出す露店や、世が世なら「西側の退廃音楽」とでも呼ばれそうなライブもやっていた。

Tao Dan Park

2、30分ほど目的もなくふらついていたが、人いきれにむせてきたので、公園を出る。
すぐ隣はシネマコンプレックスのようで、週末デートのカップルが列を作っていた。


ちょっと遠回りして帰ろうと思ったが、そういえば夕飯がまだだったので、食事処を探しながら帰ると、2階建てのちょっとした食堂を見つけ、そこに入る。

時間はもう22時近いため閉店間際だったのか客はまばらで、店員もテレビを観ながらくつろいでいた。

海鮮チャーハンと揚げ春巻き、それとビールを頼む。

待っている間、皆が余りに熱心にテレビを観ているので、何をやっているのかと思えば音楽番組で、なにやらベトナム版グラミー賞の授賞式のような雰囲気だった。

こちとらさっぱり内容はわからないが、きっと「受賞者は誰それに決まっている」「お前それ本気で言ってんの?」「おいおいいくらなんでもこいつかよ!」みたいな感じで盛り上がっているのだろうとイマジン。

計画も何もなく、大急ぎで荷物を詰め込んで日本を出国したが、1日後にはベトナム人に混じってビール片手にレコ大(的番組)を観賞している妙に小気味よさを覚える。


宿に一度戻るが、水くらい買っておこうと思い、再び外に出る。
ロビーは真っ暗だったので、受付の兄ちゃんにすぐ戻る旨を伝え、カギも持ったまま、近くのコンビニに向かう。

水とついでにビールをもう1本買って帰る途中、露店でスルメを焼いているのに興味を引かれ、1つ買ってみた。

こうして宿に戻ろうとしたが、あれ?通り過ぎた?、と通りの端に行き当たる。

確かにこの辺のはずだが・・・と同じ場所を行ったり来たり往復するが、どうにも宿の入り口が見当たらない。

まるでラビリンスにでも紛れ込んだような錯覚に陥り、片手にクルックルに丸まったスルメを持った自分は、頭の中までクルックルになった。今日飛び込みで選んだホテルの名前を覚えているはずもなく、誰に聞けるあてもない。

いよいよ焦ったところで、ポケットにルームキーが入っていたことを思い出す。

ホテルの名前くらい書いてあるだろうと思い、取り出したカギの札にはマジックで空しく
「持ち出し禁止」(Don't bring it)
とだけ書いてあった。

焦っても仕方ないとガードレールに腰掛けぬるくなったビールを開缶したところで、見覚えのある看板を見つける。
そここそ我が宿に間違いなかったが、しっかりとシャッターが降りていた。
シャッターを叩いてしばらくすると受付の兄ちゃんが現れ、中に入れてくれた。

すぐに戻るって言ったのに、とはつべこべ言わずに感謝して部屋に戻り、1日目を終えた。

左手に握られていたスルメはほどよくぬくもっていたという。

2008年07月12日

ベトナム・カンボジア紀行[前書き]

Cambodia

今年の4月末にベトナムとカンボジアを1人で回った。

所属事務所をやめ、WEBの仕事も一段落つき、唐突に10日ほどの余暇が取れたからだ。
行き先の選択にはなんら迷うことなく、前日に飛行機を押さえ、躊躇する間もなく次の日にはベトナムに降り立っていた。

本当は戦争映画シリーズの中で、2本の映画紹介文と絡めて少し旅行記を交えようと思っていたのだが、それでは収まりきらないほど貴重な経験ができたので、逆に旅行記の中に戦争映画紹介文を絡めることにした。

また、戦争映画シリーズは一応時系列に沿って書いているので、本来ならベトナムやカンボジアを語るのはずーっと後になる。しかし、それでは記憶も風化してしまいかねないと思い立ち、ここに機会を設けることにした。

ベースとなるのはもはや習慣化している旅先での日記になるが、かなり大雑把に書きなぐったので、写真や地図で補足することにする。

・・・そもそも毎度誰に頼まれたわけではないのだが、今回の紀行文をしてついぞ最近まで戦乱の中にあった身近で遠い2つのアジア諸国の今昔を語れればと思う。