■ 第7日目
昨夜のパーティ会場6:30に起床し、ロビーに降りて受付にいた女性に今日プノンペンに戻るバスが取れるかを尋ねてみた。
確証はないが多分昼に出るバスが取れそうだ、とのことで一応安心し、部屋に戻って二度寝。
8時に正式に起きて、オールド・マーケットに足を伸ばしてみた。
市場は一種の社交場であり、地元の生活を垣間見る有力な手段なので、新しい街に行くと割とよく行く。

市場を出て、シェムリアップにあるキリング・フィールドに行ってみることにした。
前も書いたが
カンボジアにはあちこちにキリング・フィールド=処刑場跡がある。シェムリアップはクメール・ルージュにとって、大きな拠点であったため、その瘢痕も小さくはないはずだ。
場所は街の北西にあり、歩くにはちょっとしんどそうだったが、半日も使わないのにまたわざわざ自転車を借りるのはもったいない気がして、徒歩で行くことにした。
しかし、その距離は思った以上にあり、自転車レンタル代の$2をケチったことを後悔した。
道は一本なのだが、歩けど歩けどなかなかそれらしき場所が見えてこない。
自分の持っている簡単なフリーマップにはほとんどランドマークが記されていないため、途中あっているのだろうかと不安になった。
バイクタクシーを見つけたら迷わず乗っていこうと考えたが、普段は鬱陶しいくらい話しかけてくるのに、こんな時に限って全く見当たらない。
結局猛暑の中を30分以上歩き、ようやく目的地にたどり着いた。

シェムリアップのキリング・フィールドはプノンペンのそれと違って当時の面影はない。

地面はコンクリートで舗装され、立派な寺院が建てられていた。
しかし、敷地の一画には当時の写真や犠牲者の遺骨が置いてあった。
無造作にお堂に納められていた遺骨
犠牲者のマグショットとトゥール・スレンにあったのと同じ写真しばらく回っていると、1人の青年がカタコトの日本語で話しかけてきた。
にこやかに
「ここには『だるま学校』という日本人が作った学校があるので、案内したい」という。
多分最後に寄付を求められるパターンだろうと思ったが、案の定、立ち去ろうとすると大声で呼びとめられ、名簿のようなものを差し出された。
「子供たちに文房具を買います」と話す。
仕方なく帰りのバイタク代にと思っていた6,000Rのうち半分の3,000Rを渡す。
しかしその額では納得いかない面持ちだったので、イラっときてそれでも鉛筆くらいは買えるはずだと言って行こうとするが、お礼の代わりにまた大声で
"Wait!Wait!"と大声を上げる。
1口ナンボか知らないが、寄付される側がレイズを要求する寄付にいささか気分を害し、キリング・フィールドを後にした。
出口にいたバイタク・ドライバー何人かに3,000Rで街の中心まで行くか聞くと、4,000Rだと言う。
米ドルも使えるのだが、その時は$100札しか持っていなかったので、やむなくまた歩いて帰ることになった。
が、さすがにしんどくなって路上で休んでいたところで、1台のバイタクが通りかかり、乗ってくか?と声を掛けられた。
2,000Rでいいなら、と試しに吹っかけてみたらどの道市街に戻るつもりだったのか、すんなりいいよ乗りなと言う。
中華レストランに入り、遅めの朝食兼早めの昼食。
大分汗をかいたので塩っけのあるものを欲していたため、ワンタンのスープまできれいに平らげた。
宿に戻り荷物をまとめ、11:30にチェックアウトし、宿代$6とプノンペンまでのバス代$6を払う。

定刻通りプノンペンに向かうバスは出発し、これで今回の旅も折り返し地点を過ぎたことになる。
また6時間の道のりをバスに揺られて過ごすことになるが、行きと違ってバスはガラガラで、1人で2シート独占しても全然お釣りが来た。
後ろの席に日本人バックパッカーと思われる男子2人組がいて
、「日本人でしょ?」と声を掛けられたが、面倒くさかったので、「ええ」と軽くうなずいてかわし、本に目を落とした。
往路と同じく、途中2回パーキングで休憩を取る。
車窓から日没前のカンボジア
※クリックで拡大予定より若干遅れて19時にプノンペンに到着した。すでに日は落ち、軒には灯りが灯っている。
宿は前回と同じキャピトル・ゲストハウスに取ることにした。
バス降り際にさっきの日本人の1人に話しかけられ、
「どこに泊まるの?なんなら案内してよ」と頼まれる。
いやもう目の前の建物がゲストハウスだよ、と告げると
「え?入り口まで連れてってよ」とさらに頼まれる。
若干わずらわしかったが、どうせ自分も泊まるので一緒にフロントまで行く。
さっさとシングルの部屋を決め、じゃよい旅をと去ろうとすると
「一緒に飯食おうよ」と誘われた。
・・・この人距離の詰め方早いな、と思うがじゃそうしましょうという話になり、待ち合わせ時間を決める。
部屋に荷物を置いてから、2人の部屋を訪れ、連れ立って前回ジェフリーと食事をしたレストランに行く。
てっきり2人連れで日本から来たのかと思えば、どこぞやのゲストハウスで知り合って以来、宿探しに便利なので2人で回っているだけだという。
ちなみに話しかけてきたのは全て年長のTくんで、同い年くらいかと思ったら自分より全然年上だった。前職を辞め、なんと今度から小学校の教師になるのだという。
もう1人のUくんは自分より全然年下で、いまどきの見た目からは想像つかないが、鍼灸師をしているという。
そしてもう1人は俳優崩れでディレクターもどきの俺。
「最初やたらに避けてなかった?」とTくんが言うので、
「だって自分なれなれしくて面倒くさかったもんだから」と正直に答える俺、
「その気持ちなんとなくわかります」と続くUくん。
意外なほど、場は盛り上がり、例によって21時に店が閉まっても次に行こうかということになった。
やはり21時を回ったプノンペンは静まりかえり、ほとんどの店から灯りが消えた。
たった2夜の長だが、プノンペンについては自分が一番知っているので、それでもやっていそうなところに目星をつけて、街を歩いてみた。
ところが、大通りに出ても、主要な交差点に行っても店はほとんど開いていなかった。
仕方なく最初の夜に行ったマーケット前の屋台村まで引き返す。
今は3人だからまだしも、1人で歩くのは「勇気」ではなく「無謀」であることを痛感した。そこではぬるい缶ビールを煽りながら、それぞれの旅の目的などを話した。
Tくんは教師になるだけあって歴史にも詳しく、割とマニアックな話を振っても受け答えてくれた。
こういう知識だけではなく、それを裏付ける旅の経験も持つ先生に当たる生徒はラッキーだなあと思った。
そんな真面目な話は束の間で、男3人が集まれば当然、といった風に女の話、エロな話へとシフトしていった。
「ここの屋台のお姉さんもなかなかですよと」Uくんが言うので、チラ見するとなるほどお美しい。
オーダーにかこつけて話しかけると、以外にも自分より年上の33歳で、2児の母であったが、4年前に1人を亡くし、同時に離婚したとか。33歳、ということは前回書いた
「失われた世代」に当たるわけで、慎重に聞いてみると、父上をポル・ポト派に殺されたそうだ。
もうカンボジア人の男はこりごりだと無邪気に話す彼女は素直に美しかった。
自分は明日の朝早くにサイゴンに発つため、カンボジアの夜はこれが最後となる。
思いがけない出会いにより、名残惜しさの残るハッピーなラストナイトとなった。