2008年08月30日

戦争映画 FALL IN!! Vol.1〜Vol.10

Vol.1 「西武戦線異状なし」・・・・・・原点であり最高点の反戦映画
Vol.2 「炎628」・・・・・・観賞注意!ソ連発トラウマ映画
Vol.3 「戦争のはらわた」・・・・・・よくわかるRoad to World War 2
Vol.4 「戦場のピアニスト」・・・・・・歴史の黒幕ロスチャイルド家について
Vol.5 「ヒトラー 〜最後の12日間〜」・・・・・・なぜナチスは民衆に支持されたのか?
Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」・・・・・・余りにも有名な鬱映画とその作者について
Vol.7 「二百三高地」・・・・・・日露戦争で得をしたのは誰?
Vol.8 「パール・ハーバー」・・・・・・戦争映画とは認めません
Vol.9 「トラ・トラ・トラ!」・・・・・・戦争大好き!アメリカのスケープゴート作戦
Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」・・・・・・戦場カメラマン一ノ瀬泰造の軌跡

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2008年07月23日

戦争映画 FALL IN!! Vol.11 「キリング・フィールド」

キリング・フィールド
英タイトル: The Killing Fields
公開年: 1984年
製作: アメリカ


国民の約4分の1から3分の1が失われたカンボジア内戦を描いた数少ない(あるいは唯一?)ハリウッド映画。実際に大虐殺の時代を生き抜き、死屍累々の"キリング・フィールド"から生還したプラン役ハイン・S・ニョルが助演男優賞を受賞している。



ストーリー
1973年8月。NYタイムズの記者シャンバーグ(サム・ウォーターストン)は、アメリカを後楯にしたロン・ノル政権と、反米革命派勢力、クメール・ルージュとの闘いが表面化したカンボジアの首都プノンペンに降り立つ。カンボジア人のディス・プラン(ハイン・S・ニョル)が、現地で彼の通訳・ガイドとして仕事を助けてくれることになった。75年、ロン・ノル政権はついに崩壊、クメール・ルージュを率いるポル・ポト政権が誕生する。
次第にシャンバーグら外国人記者の安全地帯も徐々に縮小されに、ついに国外へと避難する。しかし、カンボジア人のプランは国外脱出が叶わずクメール・ルージュに連行されていくのであった。
(goo映画あらすじを大幅に加筆修正)


最初にはっきり言ってしまうと、
この映画はカンボジア内戦の入門的作品である。
悪く言えば、表面的で、当時の戦戦慄慄なカンボジアの国状に肉薄しているとは到底言いがたい。(あくまで私見)
なので、カンボジア内戦について本当に知りたければ、後に紹介する別のソースを推薦したい。

入門映画にならしめた理由として、主人公のアメリカ人記者の目線を主軸に据えていることがあり、内戦の当事者であるカンボジア人の心情が表面的にしか描かれていない。結果シャンバーグとプランの友情物語に終わっている。
さらにそこに虚構=映画的ウソを加えているので、観る人が観ればもどかしさを感じずにはいられないだろう。

しかし、後半クメール・ルージュから逃れるプランの逃走劇は真に迫るものがあり、この部分だけで2時間やってくれればよかったのにと思う。

また、音楽の選曲がかなり不可思議で、クライマックスで流れる「イマジン」はまだよいとしても、エンドロールでクラシック・ギターの名曲「アルハンブラの思い出」を、しかもこのトレモロの名曲をなぜか単音で流すセンスは全く理解不能であった。


と、半ば批判的なイントロになったが、「キリング・フィールド」の功績は、ハリウッドパワーで歴史の闇に埋もれつつあったカンボジアの大虐殺を世に知らしめたことにある。
ベトナム戦争の映画は数限りなくあるが、カンボジア内戦を描いたハリウッド映画は知る限りこれだけで、アカデミー助演男優賞に加え、撮影賞、編集賞も受賞したことも考えると注目度はかなり高かったと言える。

また、現代の日本ではもはや「ポル・ポト派」「クメール・ルージュ」という言葉すら人々の記憶から風化しつつあると思うが、実は30年越しの2006年に始まった「クメール・ルージュ裁判」(当時の最高幹部5〜10人を人道の罪で裁く裁判)の費用の4割、実に2160万ドルを出しているのは他ならぬ日本だ。

せめて何があったのかを知る入門として考えると、「キリング・フィールド」は決して悪い選択肢ではない。



「キリング・フィールド」の背景
まずもって沸き起こる疑問はこれであろう。

なぜカンボジアで大虐殺が起きたのか?

これについて紐解いてみたいが、その前段としてVol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」の背景でインドシナ半島の状況について軽く触れた。
今回はさらに世界地図を広げてみたい。

そもそもの話で言うと、カンボジア内戦はその名の通り戦時国際法の適用も曖昧な内戦=Civil Warである。

しかし、カンボジアを戦乱の渦に巻き込んだ状況、東西の代理戦争であったベトナム戦争から受けた影響を考えるとカンボジア内戦は内戦の枠には収まらない。

ここで1975年、冷戦の下に二極化した東西勢力図をまとめてみた。
インドシナ半島に見る東西冷戦マップ
※クリックで拡大

一目ではわかりにくいが、これでもめいいっぱい簡略化しており、現実ははるかに複雑。

上記を見てもわかる通り、東西陣営は険悪なにらみ合いの末、直接的なぶつかり合いを避け、将棋の駒でも動かすように第三国の内乱に手を出し口を出し、なんとも底意地の悪い歪んだ世界を作り出した。

自分は、カンボジアの内戦そして大虐殺はこの歪んだ東西軋轢の果てに生まれた「膿み」のようなものだと考えている。


具体的な対外関与を見てみよう。

China 中国との関係
精神面においても実行動においても、クメール・ルージュを培養したのは中国共産党、さらに言えば毛沢東である。
クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、毛沢東主義=マオイズムの狂信的支持者であり、農村社会への回帰、都市型帝国主義の否定という思想も毛沢東の受け売りだ。
また、時代的にも文化大革命の終末期とクメール・ルージュの台頭期は符合する。
※毛沢東によって行われた"改革運動"。その実は反対派の粛清であり、1000万から2000万の人々が殺害された。

こうしてマオイズムの後継者としてポル・ポトは、都市の住民を農村へと移住させ、強制的に農作業に従事させた。そして、医者、学者、教師などのインテリは生産を行わず搾取を行う対象として、すべからく連行し、拷問・抹殺した。
メガネをかけているだけで、抹殺対象にされたと言うから恐ろしい。また身体障害者など欠陥を持つ者も「無用」として容赦なく殺された。

中国共産党側もクメール・ルージュへの援助を惜しまず、蜜月の関係が成立していた。


USA アメリカとの関係
Vol.10で書いた通り、シアヌーク国王を追い出したロン・ノル軍事政権を操り、カンボジア内戦の火種を作ったのはアメリカだ。
火種どころか1970年には南ベトナム軍と共にカンボジアに侵攻し、なんと二次大戦で日本に投下した総量の3倍の爆弾を放っていった。

ところが、1973年にベトナム戦争から撤兵すると、急激にインドシナ半島から興味を失い、火だけ着けて後は「対岸の火事」にしてしまった。
また、1978年に結実した米中国交正常化への動きもあり、中国が支援するクメール・ルージュとことを荒立てたくない、という思惑もあったと思われる。いずれにせよ、結果的にアメリカはポル・ポト派の虐殺を見て見ぬふりしたことになる。

それどころか、冷戦下の複雑なもつれの果てに、クメール・ルージュ政権崩壊後、介入したベトナム軍と戦うクメール・ルージュゲリラに資金援助を行っている。


Vietnam ベトナムとの関係
ベトナムはクメール・ルージュにとって最も忌むべき存在であり、国民はベトナム人(ユーン)への憎悪と殺意を徹底して教育された。
根は深いが、直近のきっかけはカンボジア侵攻である。

上の図を見ての通り、同じ共産主義でありながら当時中国とソ連は対立していた。カンボジア侵攻において、カンボジア(中国支援) × ベトナム(ソ連支援)という、ここでも小さな代理戦争が展開されたのだ。
まさに赤同士、血で血を洗う泥沼戦争であり、ここにも冷戦当時の複雑怪奇な世界の歪みを観察することができる。

クメール・ルージュは政権奪取後、幾度となくベトナムへの侵攻を繰り返し、1978年4月には国境の村の3,000名を超える住民を虐殺した。これを機にベトナムは本格的にクメール・ルージュ掃討へと動き、翌1979年1月にとうとうクメール・ルージュ政権を打倒する。

ここに3年9ヶ月に及んだポル・ポト大虐殺の時代が終わりを告げた。

しかし、クメール・ルージュの残党はタイ国境のジャングルへと逃れ一帯を支配し、ポル・ポト自身も1998年まで生き長らえることになる。


Japan 日本との関係
当時の日本の外交は常にアメリカの顔色を伺う風見鶏的スタンスだった。(つまり今と同じってこと)
確かに直接カンボジアに手を出したのはアメリカだったが、ベトナム戦争以降、日本は軍隊の中継地、物資の供給地として機能し、濡れ手で粟状態だったわけだから、関与していないとは到底言えた言葉ではない。

そして極めて重要な事実として、日本は西側諸国として唯一ポル・ポト政府(正確にはカンボジア民族連合政府)を承認している。

1978年にはポル・ポトの義弟で副首相兼外務大臣だったイエン・サリの訪日が実現したりと、それなりの関係を築いていたわけだ。
ちなみにイエン・サリは前述の「クメール・ルージュ裁判」の被告の1人で、日本はこの裁判に巨費を投じているのだから風見鶏っぷりも甚だしい。

また、ベトナム軍侵攻によるクメール・ルージュ崩壊後、ベトナムの傀儡ヘン・サムリン政権が樹立するが、ソ連が裏で糸を引いているベトナム傀儡政権を、西側に属する日本が支持できるはずがなかった。

こうして、日本は現実を熟知しつつも、アメリカやイギリスと同様に形骸化したクメール・ルージュ政権を支持し、カンボジア復興を遅らせる一因を作ったことになる。


以上、どうしたってややこしい話になってしまったが、
カンボジア内戦は「歪んだ東西軋轢の果てに生まれた『膿み』のようなものだ」と言った理由がお分かりいただけたのではないかと思う。


おすすめ図書

「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」ルオン・ウン著

タイトルだけでもすでに禍々しいインパクトが伝わってくるかと思うが、この本は1人でも多くの人に読んでほしいと強く願う1冊だ。
上述したような面倒くさい歴史的背景や政治的背景は最小限にとどめ、クメール・ルージュ政権成立当時まだ5歳の少女だった著者が実際に体験した地獄絵図を子供の目線で綴ったノン・フィクションである

クメール・ルージュ統治下のカンボジアが、いかに退行した原始的イデオロギーで国民を苦しめ、夢も希望もない困窮生活を強いていたかがよくわかる。

実話だけに読むにはちょっと覚悟がいる本ではあるが、最後までたどり着くと救いがあることもまた事実である。

なお、7年前この本を読んで以来悲願となったカンボジア来訪が叶ったのは今年4月のこと。


「キリング・フィールドからの生還―わがカンボジア『殺戮の地』」ハイン・ニョル著

「キリング・フィールド」でアカデミー助演男優賞を受賞したハイン・S・ニョルの自著。(ミドルネームのSは偽名で使っていた"サムナン"を亡命後に本名に入れたらしい。)
ハイン・S・ニョルは演劇経験はゼロだったが、虐殺の歴史の生き証人としてその辛い過去を自らなぞったことはやはり賞賛に値する。

本書では映画をはるかに凌ぐ凄惨極まりないポル・ポト政権の実態が、直接的描写で語られている。自分は映画より先に本書を読んだがために、冒頭に書いたようなもどかしさを感じたとも言える。
氏はクメール・ルージュ以前、医師であったため、正体がばれれば真っ先に拷問され、殺される立場にあった。
どうやって虐殺の魔手を逃れ、また幾多の拷問と悲しみを乗り越え、アメリカ亡命を果たしたのか、きっとノン・ストップで読みきれる1冊だと思う。

なお、氏はポル・ポトの死より2年早い1996年、ロサンゼルスの自宅近くで強盗により射殺された。


最後に、YouTubeで見つけた「キリング・フィールド」の後半ハイライト部分の動画を引用しておく。これから全編をご覧になるという方はスキップされるといいが、上記を読んでもなんだかピンとこなかった、という場合要するにこういう映画だということがわかる動画です。







関連記事

 Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」
 ベトナム・カンボジア紀行[寅の巻]
 └トゥール・スレン虐殺博物館篇
 ベトナム・カンボジア紀行[卯の巻]
 └プノンペン、キリング・フィールド篇
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2008年07月15日

戦争映画 FALL IN!! Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」

地雷を踏んだらサヨウナラ
タイトル: 地雷を踏んだらサヨウナラ
公開年: 1999年
製作: 日本


「地雷を踏んだらサヨウナラだ」と友人に言い残し、単身アンコール・ワットへ潜入するも、そのまま消息を絶った日本人戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の伝記的映画。





ストーリー
1972年、民族解放軍クメール・ルージュと政府軍との闘争が激化するカンボジアの首都プノンペン。25歳のフリーカメラマン・一ノ瀬泰造は、解放軍の聖地である遺跡アンコール・ワットの撮影に燃えていた。カンボジアを追放され、ベトナムの戦場を転々とした後、毎日新聞の松山記者の計らいで、カンボジアに密入国を果たした泰造は、親友ロックルーの結婚式に出席した後、「地雷を踏んだらサヨウナラ」という言葉を残してジャングルの中に入っていく。
(goo映画あらすじから加筆引用)


若々しい浅野忠信と戦場で葛藤する一ノ瀬像がぴたりとはまった良作中の良作。
一ノ瀬泰造はピューリッツァー賞受賞カメラマン、沢田教一と並んで有名な日本人戦場カメラマンで、ベトナム戦争・カンボジア内戦を取材し、最期は1973年ポル・ポト派クメール・ルージュによって処刑された。


「地雷を踏んだらサヨウナラ」の背景
まず当時のインドシナ半島の情勢を整理しておきたい。

※前提として実質的に冷戦の代理戦争的特徴を持つベトナム戦争の系譜についてはコチラを参照されたし。

以下、それぞれの勢力が東西どちらの陣営に組するかわかりやすくするため、アメリカ資本主義陣営(またはその考えに近い方)は[資]、中ソ共産主義陣営(またはその考えに近い方)には[共]のマークを付ける。

1970年3月、カンボジアにて国家元首シアヌーク[共]が北京外遊中の折に、ロン・ノル将軍[資]がクーデターを起こす。しかし、シアヌーク支持派[共]のデモが続き、ロン・ノル[資]はアメリカに支援を求めた。

4月、ベトナムで苦戦していたアメリカ軍はロン・ノル政権[資]に資金援助を行い、自らの傀儡政権とした。

これに抵抗したのが、ポル・ポト[共]率いるクメール・ルージュである。

クメール・ルージュ(Khmer Rouge)とはフランス語で「赤いクメール」の意味で、共産主義の赤とカンボジア人を指すクメールの名を冠する。
クメール・ルージュは当初一政党に過ぎなかったが、権力を奪われたシアヌーク[共]に支持されたことで、農民層を味方に付け勢力を拡大する。

こうして勃発したカンボジア内戦は、やはりベトナムと同じく代理戦争的な側面を持ちながら戦火を拡大していく。

1972年、一ノ瀬泰造がカンボジア入りしたのは、アメリカが直接介入し南ベトナム軍[資]を侵攻させて、内戦が激化した頃である。


サイゴン、戦争証跡博物館にて
ベトナムはサイゴンにある戦争証跡博物館(War Remnants Museum)別館には、世界的報道カメラマンのロバート・キャパらと並んで、一ノ瀬泰造の写真も複数展示されていた。

ここからは、一ノ瀬泰造の写真を始め、かの地で収めた写真を数点紹介したいと思う。
写真の写真であるため、ピンボケが多いのはどうかご容赦願いたい。

写真家リスト
入り口に飾ってあった展示写真家のリスト。
KYOICHI SAWADAと並んでTAIZO ICHINOSEの名が確認できる。

安全へのダイブ
一ノ瀬泰造撮影による「安全へのダイブ」。UPI月間賞を受賞。
映画の中では"戦友"ティムの死と引き換えに撮られた一枚として登場。
1972年、ベトナム、メコンデルタにて。

安全への逃避
先人、沢田教一のピューリッツァー受賞作品「安全への逃避」。
恐らく日本で最も知られているベトナム戦争の写真。

沢田教一
戦場の沢田教一。
沢田教一は泰造より3年早い1970年にカンボジアで「戦死」。享年34歳。

Robert Capa
沢田、一ノ瀬を始め世界中のカメラマンの憧れだったカリスマ、ロバート・キャパ。
1954年、南ベトナムにて"地雷を踏んでサヨウナラ"する。

Tan Binhにて
やはり沢田教一の手による有名な一枚。
米軍戦車に引きずられる南ベトナム解放民族戦線兵士の死体。1966年撮影。

一ノ瀬泰造
生前の一ノ瀬泰造。氏のご両親により寄贈。


泰造のニコン
ラストの一枚は一際目立つ場所に一際目立つ大きさで展示されていた泰造の遺品。
銃痕生々しいこのニコンは、映画で一時帰国した泰造の置き土産として登場するが、恐らく本物。



本当の地獄の始まり
一ノ瀬泰造が処刑された1973年という年は、1月にベトナムからアメリカが撤兵し、北ベトナム軍が圧倒的に勢力を強めて、1975年の終戦に向けて収束し始めた時期である。

しかし、皮肉なことにベトナム戦争の影響で始まったカンボジア内戦は泰造の死後、国中を舞台にしたさらなる地獄へと様子を変えていくことになる。

その核心については次回Vol.11にて。


最後に、未見の方には是非観賞してほしいのでこれ以上は語らないが、一言でまとめるとこの映画は綿密な調査の上に、静かな情熱が加わり、そこにいくばくかのイマジネーションが吹き込まれている。
身内びいきを引いても、必見と言える作品である。





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 Vol.9 「トラ・トラ・トラ!」
 Vol.8 「パール・ハーバー」
 Vol.7 「二百三高地」
 Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」
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 Vol.4 「戦場のピアニスト」
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2008年06月01日

戦争映画 FALL IN!! Vol.9 「トラ・トラ・トラ!」

トラ・トラ・トラ!英タイトル: Tora!Tora!Tora!
公開年: 1970年
製作: アメリカ


1941年ハワイ時間12月7日、日本時間12月8日未明、ハワイ・オアフ島において日本軍が行った真珠湾攻撃。「太平洋戦争」の口火を切ったこの歴史的事件を日米双方の映画屋が総力を結集して作った力作。


ストーリー
12月2日、ハワイへ向け進航中の第一航空艦隊は、山本長官から(出撃指令)「ニイタカヤマノボレ」という暗号を電受した。いよいよ真珠湾攻撃の時が来た。12月7日、東郷外相は駐日大使の天皇拝謁を助け、局面打開を求めたが、道はすでにふさがれていた。翌12月8日未明、遂に南雲中将の率いる機動部隊はオアフ島北方から真珠湾に迫り、午前7時57分、淵田少佐を先頭とする戦隊が、空から敵地へ突っこんで行った。(goo映画から加筆引用)


この映画の最大の驚きと言うか不思議は、史実に基づき日米両方の視点を平等に取り入れていることだ。

戦争映画は性質上、Vol.8でこきおろした「パール・ハーバー」のように一方の視点を軸に感情移入させる方が一般的で、結果としてプロパガンダ映画ができあがることが多い。

ところが、「トラ・トラ・トラ!」は、アメリカの20世紀フォックスが制作したにもかかわらず、攻撃側の日本の心情まで丁寧に描いている。むしろアメリカ軍の呑気具合を強調させすぎではないかと思うほどだ。

主に日本側の脚本を書いたのが黒澤明だったため、ありがちな誤った日本観にならなかったことは理由の1つだが、主導権はアメリカにあったのだから不都合な部分はいくらでも加工できたはずだ。

加えて、ベトナム戦争の真っ最中のアメリカがよくこれを作れたものだ、とまず感心する。

なお、「トラ・トラ・トラ」とは、日本軍の真珠湾攻撃成功を伝えた電文で「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する。


「トラ・トラ・トラ!」の背景
※第二次大戦に向かう世界情勢についてはVol.3参照のこと。

Japan 日本側の思惑
真珠湾攻撃を遡る1937年から日本は中国と日中戦争の状態にあったが、戦況は泥沼化していた。
さらにアメリカ、イギリス、中国、オランダのABCD包囲網により鉄や石油の輸入規制を受け、「持たざる国」日本は苦しい立場に立たされていた。
ついに「太平洋戦争」開戦前夜の1941年7月、南部仏印(今のベトナム南部とカンボジア)進駐への制裁として石油の全面輸出禁止となり、にっちもさっちも行かない状況に陥った。

そこに突きつけられたのが
アメリカ、コーデル・ハル国務長官からの最後通牒、
通称ハル・ノート


ハル・ノートは一言で要約すると
「日露戦争以降日本が手に入れた領土を全部手放しなさい」という内容。

日清、日露戦争の勝利により自らの植民地化を逃れるどころか列強の仲間入りを果たし強気でいた日本にとって、ハル・ノートは「屈辱」以外の何物でもなかった。

当然のごとくアメリカに対する敵対心が湧き上がり、作戦コマンド「ガンガンいこうぜ」と相成る。
そこで採用されたのが大西瀧治郎参謀による虎の子の戦法、真珠湾奇襲作戦であった。


USA アメリカ側の思惑
結果論で言うと、一次大戦でも二次大戦でもアメリカはカギを握る国であり、当時の外交文書においても勝つか負けるかという議論はなく、勝つのは当たり前で戦争が終わった後の世界秩序をどう構成するかが焦点であった。

「太平洋戦争」においては、その後予想される共産主義国との対立(後の冷戦)を想定し、どういう足場を築くかの二手三手先まで考えられていた。
そのためには太平洋の向こう側にも基盤を築く必要があり、日本は地理的に格好の的だった。

戦争を始めるか否かのイニシアチブを握っていたのもアメリカである。

なぜか?
当時日米戦争近しとささやかれつつも、日本が最も必要としていた石油の80%はアメリカから輸入していた。
つまり、このパイプラインを断ってしまえば、日本がやけくそになるのは明白で、ルーズベルトは他の部分は締めつけても、石油だけは最後まで切り札として手元に残していた。

そして1941年7月、日本は北部仏印(今のベトナム北部とラオス)から駒を進め、南部仏印に進駐する。南方戦線の基地を作ることが目的だったが、同時にスマトラ、ボルネオの油田地帯に一歩近づいたわけだ。

切り札はここで切られた。
アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面輸出禁止という経済制裁を発動した。

予想以上の反応でにっちもさっちも行かなくなった日本に
とどめの一撃、ハル・ノートが突きつけられた。


アメリカの「スケープゴート」戦略
と前章では、アメリカの対外戦略について語ったが、むしろ問題は国内にあった。

というのは、世界の紛争にばんばん介入する今ではどこ吹く風だが、アメリカは伝統的にモンロー主義=孤立主義を政策の要とし、風車の矢七的ポジションが基本スタンスだった。
そのため、他国と開戦するには議会と国民を納得させるそれなりの理由が必要であった。

そこで利用されたのが、「スケープゴート」としての真珠湾であった。

さて、Vol.1で前振りした「アメリカの"お家芸"」についてようやくここで説明することになるが、アメリカはスケープゴートを用意し、国民感情を戦争!に扇動することが定石である。その古今東西の実例は以下の通り。


ルシタニア号事件 第一次大戦参戦
1915年、アメリカ人乗客128人を含むイギリスの客船ルシタニア号が、ドイツ軍のUボートによって撃沈された事件。
それまで中立だったアメリカ国内で一気に「卑劣なりドイツ!」の開戦論が沸騰。結果1917年4月、ドイツの無差別潜水艦作戦再開後、遅ればせながら第一次大戦に参戦。


ルシタニア号は民間客船であったが、アメリカから連合軍へ向けての弾薬を積載していた。(国際法違反)当時、制海権巻き返しを図るドイツは無差別潜水艦作戦を宣言しており、そんな中弾薬を積んだ船がUボート出没海域を行き来するのは自殺行為に等しかった。


トンキン湾事件 ベトナム戦争本格介入
1964年、米軍の駆逐艦マドックスがベトナム、トンキン湾上で北ベトナム軍の魚雷攻撃を受けた事件。これをきっかけにジョンソン大統領は"報復攻撃"を決定。

そもそも、そんな事実はなかった。
アメリカによる全くの自作自演であり、北爆開始の口実であったことが関係者によって暴露されている。



911同時多発テロ イラク戦争
2000年9月11日に起きたWorld Trade Centerを始め、アメリカで起きた一連のテロ事件。
ブッシュ大統領は「対テロリズム」を標榜し、イラクは「アルカイダと関係が深い」(自分たちこそね)、「大量破壊兵器を保有している」(自分たちこそね。しかも結局なかった)と主張し、対イラク参戦。


BBC報道で加熱したが、911は完全な自作自演だったという説がある。
その指摘として、
「ビルの崩落が速すぎで、あれは飛行機の追突ではなく爆破によるものでは?」
「位置的に何の影響もないはずのWTC第7ビルが崩落したのはなぜ?」
「ペンタゴンの破壊痕はジャンボが墜落したにしては小さすぎない?」
など。


※反米帝色の濃いメディアからの発信が多いので眉唾だが、1979年のソ連アフガン侵攻の時、CIAがアルカイダを作った説があったり、ビン・ラディン一族とブッシュ一族が共同経営する会社があったり。長くなるのでまた別の回で。


例によって話がずれたが、「太平洋戦争」のスケープゴートとなったのが真珠湾ということだ。

「トラ・トラ・トラ!」では日本の暗号電文がだだ漏れだったことが描かれているが、実は大統領レベルまで真珠湾攻撃について筒抜けだった可能性が高く、ルーズベルト大統領は日本に先制攻撃をさせるために「知らぬ振り」をしたという陰謀説がある。

― その結果、日本の奇襲により民間人57名を含む2,345名の戦死者と超弩級戦艦アリゾナ他大量の戦力が失われた。これは日本の戦力を過小評価していたペンタゴンやホワイトハウスにとって予想を上回る大損害だった。

ただし、アメリカも想定していなかったのが、駐米大使の野村、来栖両氏が「なんならやっちゃいますよ」な宣戦布告をハル長官に手渡したのが、「もうやっちゃった」真珠湾攻撃の55分後だったという事実。

なぜそんな致命的トホホが起きたかと言えば、奇襲の日12月7日は日曜日であり、ワシントンの大使館員が同僚の葬儀で出払っていたこと、英訳タイプに手間取ったことなどがあったそうだ。

真珠湾攻撃の目的は敵の戦力に重大な打撃を与えるともに、アメリカ人の戦意を喪失させることだったが、宣戦布告の遅延により「騙し討ち」となったことで全くの裏目となった。
アメリカでの世論は沸点を超え、"Remember Pearl Harbor"の標語の元、「卑怯な"ジャップ"」への報復で意見が一致した。

REMEBER PEARL HARBOR
※戦時国債の購入を促した当時のポスター。腕には"JAP TREACHERY"=「ジャップの背徳」、ナイフには真珠湾攻撃の日付が書かれている。蛇足だが、ジャップが侮蔑語となったのは真珠湾攻撃から。

私見では、アメリカが東京大空襲やヒロシマ、ナガサキなど国際法無視の民間人大虐殺をためらわず遂行できた原点はここにあったと思う。


実写の迫力
ここからは「トラ・トラ・トラ!」の映画としてのできについて目を向けてみたい。

作られたのは38年前、当然CGなんて影も形もない時代。
つまり全てが実写であり、一部ミニチュアを使っているものの概ね本物の戦闘機や戦艦を使用している。ゆえに、ライブ感100%のスペクタクル映画に仕上がっている。

実際、鑑賞中に何度「すげー」を心の中で呟いたかわからない。

裏話を含めて1つ「すげー」を紹介すると、B-17の片輪が降りなくて胴体着陸したシーンがあるが、あれは撮影中に本当に起きた事故。
撮影スタッフは片輪が出ないという緊急報告を受けるや、着陸レーンにカメラをセットしたそうだ。
※参照リンク(英文):http://www.aerovintage.com/tora.htm


世界のクロサワ降板劇
撮影当初、日本側の監督には黒澤明がアサインされていたが、クランクイン直後に製作側と予算をめぐる見解の相違により、結局降板となった。
(代わりにメガホンを取ったのは、Vol.7で書いた『二百三高地』監督の舛田利雄と、後に『仁義なき戦い』で一世を風靡する深作欣二)

日本側の脚本も黒澤の手によるものだったが、降板後もほとんどそのまま使用された。
しかし、黒澤は「トラ・トラ・トラ!」に自分の名前がクレジットされることを好まず、結局完全なアラン・スミシーと化した。

さて、リアリティの追求という点において、個人的には今の完成度で申し分ないのだが、もしも完全主義者、黒澤明が監督を続けていたらどうなっていただろうか?
黒澤なら本気で一個連隊と一個師団をぶつけあい、本当の戦争をおっぱじめかねない。
カニカマに本当はカニが入っていなくても許せる程度の俺としては今のレベルで十分だ。


参考文献
「真珠湾燃える」 秦郁彦著 / 原書房刊




関連記事

 Vol.8 「パール・ハーバー」
 Vol.7 「二百三高地」
 Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」
 Vol.5 「ヒトラー 〜最後の12日間〜」
 Vol.4 「戦場のピアニスト」
 Vol.3 「戦争のはらわた」
 Vol.2 「炎628」
 Vol.1 「西武戦線異状なし」
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2008年05月17日

戦争映画 FALL IN!! Vol.8 「パール・ハーバー」

パール・ハーバー英タイトル: Pearl Harbor
公開年: 2001年
製作: アメリカ


アメリカが作った自称戦争映画。
実在の事件をネタにしているが、フタを開けたらできの悪いドタバタラブロマンスだったというオチ付き映画である。




ストーリー
アメリカ軍のパイロット、レイフとダニーは幼い頃からの親友同士。やがてレイフは看護婦のイヴリンと出会い、恋に落ちる。レイフはヨーロッパ戦線に参加し、やがてイヴリンにはレイフの訃報が届く。悲しみに沈むダニーとイヴリンはお互いを慰めあううちにやがて深い関係になってしまうが、実はレイフは生きていた―。
(Wikipediaから加筆引用)

一応戦争映画を語るコラムなので、戦争映画っぽいテイストで男女のどうでもいい恋バナを語るこの映画を扱うおつもりはさらさらなかったのだが、「涙なくして観られない戦争映画ランキング」とやらの結果を見て、何か言いたくなったので起稿してみた。

ランキングの結果

【抜粋】
1位 「火垂るの墓」
2位 「ひめゆりの塔」
3位 「ビルマの竪琴」
 :
13位 「ジョニーは戦場へ行った」
14位 「パール・ハーバー」
15位 「ブラザーフッド」


ほんとかよ日本人。



びっくりしたよ俺は。俺的には「涙なくして観られないランキング結果」だったさ。
ついでに言うとおやおや「ローレライ」は戦争映画だったんですか。自分はてっきりファンタジーの類だと思ってましたよ。


「パール・ハーバー」の知ってた?こんなこと
今回は特に語る背景なし。フィクションだから。
史実と異なる点の指摘については、Wikiに詳しいのでそちらを参照されたし。ここでは映画に関する公開当時2001年のニュースをいくつか紹介。

えひめ丸とプレミア上映会
2001年2月10日、オアフ島沖で宇和島水産高校の練習船えひめ丸が浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンヴィルに衝突され沈没した。乗務員の35人のうち、教員5人、生徒4人が死亡した。

2001年5月23日、「パール・ハーバー」のプレミア上映会がオアフ島真珠湾沖にて、アメリカ海軍の航空母艦ジョン・C・ステニス艦上で退役軍人や政治家を招待し、盛大に行われた。


ハワイ人からすれば、60数年前にそこで何があったのか知らず、大挙して観光に訪れる日本人は無神経かもしれない。
しかし、えひめ丸の事件からプレミアまでたった3ヶ月。被害者や遺族の気持ちを風化させるには短すぎる。どんなに金をかけていようが中止すべきだったと思う。
なお、このプレミア、日本の報道機関は出禁だった。

蛇足ながら、日本で行われた試写会もかなり盛大で、主演ベン・アフレックを迎え、史上初めて東京ドームを使って行われた
実は個人的感情とは裏腹にこの映画のプロモーションにほんの少し関わっていたので、試写状をもらった。自分は行かなかったが代わりに行った知人の話では、ベンはオープンカーでにぎにぎしく登場したそうだ。


「パール・ハーバー」 for Japanese only
当時のニュースをママ引用↓
22日付の英大衆紙サンは、米ウォルト・ディズニー社製作の真珠湾攻撃を題材にした大作映画「パール・ハーバー」の日本公開版で、日本人の感情に配慮し終幕近くの台詞の一部が削除されると報じた。
「米国が真珠湾の米艦隊への日本の卑劣な奇襲からどう反撃し戦争に勝利したか」をヒロイン役の英女優ケイト・ベッキンセールさんが語る部分という。
同社関係者は「日本人を悪く描きすぎないよう非常に努力した」と述べると同時に「日本は映画『タイタニック』の収益の約20%を稼ぎ出した巨大な市場だ」と指摘したといい、興行への影響も考慮されたことを示唆した。ドイツ人はほとんど登場しないが、ドイツ公開版でもこの台詞は削除されるという。


そうきますか。どうせなら正々堂々と公開すればよいではないか。その方が数字も伸びたよ。


コメディとして見る「パール・ハーバー」
この記事を起こすために、7年ぶりに「パール・ハーバー」を再見した。
やっぱり今見返してみても歴史考証のなさには呆れるを通り越して笑えてきたし、ラブ・シーンは寒気がするので早送った。
製作者はこのしょうもないストーリーを語るために、どうっしても183分という長い尺が必要だったのだろうか?

と、いちいち反応していたらキリがないので、
「そうか、これはコメディなんだ」
と発想を変えてみた。

そう考えたら、笑えるシーンは結構多い。
例えばジョン・ボイト扮するルーズヴェルト大統領が車椅子から立ち上がるシーン。
未だに人気のある大統領なので、かっこつけさせたかったんだろうけど、自分にはどうしてもクララ in ハイジがかぶって見えた。

最後にこれは噂の域を出ないが、「パール・ハーバー」が日本全国で公開できたのは、D社との水面下の協議でT社が映画「H」の世界配給を条件に国内の右派勢力ににらみを利かせたためらしい。


ドかぶり映画「ブラックホーク・ダウン」
ソマリア内戦(1993年)を世界に知らしめた功績は大きいし、スペクタクル映画としても見応えはある。
しかし、製作ジェリー・ブラッカイマー、主演ジョシュ・ハートネットという時点で「パール・ハーバー」の既視感を禁じえない(トム・サイズモア、ユエン・ブレムナーも両作に出演)

実際、米兵が派手にバッタバタと倒れるが、エンドロールによると米兵の戦死者は19名だったという。
ブラッカイマー節とでもいうかいたずらにパトリオッティズムを煽る手法は「パール・ハーバー」とちっとも変わっていない。
「アルマゲドン」のような完全フィクションならともかく、史実を元にこの見せ方はいかがなものか。
「俺は大衆が何を求めているかわかっている」とでもお思いかもしれないが、それならそれで歴史を伝える責任感と危機感を持って映画作りに励んでほしい。


次回の戦争映画シリーズは「トラ・トラ・トラ!」を紹介予定。

関連記事

 Vol.7 「二百三高地」
 Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」
 Vol.5 「ヒトラー 〜最後の12日間〜」
 Vol.4 「戦場のピアニスト」
 Vol.3 「戦争のはらわた」
 Vol.2 「炎628」
 Vol.1 「西武戦線異状なし」
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2008年05月12日

戦争映画 FALL IN!! Vol.7 「二百三高地」

二百三高地公開年: 1980年
製作: 日本


日本が作った戦争映画として近年希に見る傑作。小国日本が大国ロシアを下したため、諸外国にも多大なるインパクトを与えた日露戦争における旅順203高地争奪戦が題材。

日露戦争?いつの話だっけ?、「坂の上の雲」?コブクロの新曲?なんて方は必見。


ストーリー
十九世紀末。ロシアの南下政策は満州からさらに朝鮮にまで及び、朝鮮半島の支配権を目指す誕生間もない明治維新政府の意図と真っ向から衝突した。開戦か外交による妥協か、国内では激論がうずまいていた。軍事力、経済力ともに弱小な日本にとってロシアは敵にするには強大すぎた。しかし、幾度となく開かれる元老閣僚会議で、次第に開戦論がたかまっていく。(goo映画から抜粋)

本作は複数の視点が交錯する。メインは乃木、児玉を中心とした大本営と実際に戦線に立つ小賀小隊の視点。小隊長の小賀中尉はインテリで元々親露派であった。しかし、次第に敬意から侮蔑に変わるさまが実にリアルで信じられる。
燦々たる前線のさまも割と客観的に描かれているようで、最近の日本映画界には是非学んでほしい。


「二百三高地」の背景
約100年前、日本は国家の威信をかけて、ロシアと戦争をした。国内ですら「引き分ければよし」と言われていた戦争になんと日本は勝利する。
国内ではそのニュースが大々的に報じられ勝利に沸いたが、実情は映画の通り物資不足の中、大量の兵力を消耗し、完全勝利とは程遠い青息吐息の「辛勝」であった。

現に、1905年終戦調停であるポーツマス講和会議において、これ以上戦争を続けられると困る日本は大きく譲歩し、「自分たちは完敗したわけではないデース」というロシアの主張にもほぼ屈する。
戦没者の数も双方とも12万人程度とほぼ同数であった。

結果、日本は樺太の一部や遼東半島の租借権を得るが、疲弊しきった国内経済を立て直すための賠償金を1円も得ることができなかった。


では、結局日露戦争で得をしたのは誰だろうか?


ポーツマス条約で権威を示したアメリカ、後に英露協商(1907年)によりイラン南部、アフガニスタンを得たイギリスも間接的には得をしたことになるが、明らかに直接的利益を享受した者としてロスチャイルド家が挙げられる。

ロスチャイルド家についてはVol.4.「戦場のピアニスト」で触れ、ロスチャイルド家が介在した事件の1つとして日露戦争を挙げた。


それはこういうカラクリ↓
開戦直後、圧倒的に不足する戦費調達のために日銀副総裁・高橋是清はアメリカ、ヨーロッパを奔走する。しかし、日本がロシアに勝てるはずがなかろうと思うように資金は集まらない。

そこに現れたのが、ロスチャイルド家の代理人、クーン・レーブ商会(※)ジェイコブ・シフであった。シフは是清と会った翌日必要額の半分500万ポンドをポンと融資する。

ロスチャイルド家の狙いは、当時ロシアで横行していたユダヤ人迫害―ポグロム(Vol.2参照)に対する牽制と最終的な帝政ロシアの崩壊(第一次大戦で成就する)

そして戦後、日本は一切賠償金を勝ち得なかったにもかかわらず、律儀にクーン・レーブ商会に利子と一緒に返済を続けた。
シフは融資に加え日本国債を大量に購入しており、結果的にがっちりと利益を得た。


しかし、このような台所事情は日本国民のあずかり知らぬこと。
「ロシアに勝った」 ― その熱狂が自信過剰を招き、二次大戦での大敗へと繋がったとも解釈できる。

※クーン・レーブ商会は最近ライブドア事件で話題になったリーマン・ブラザーズの一部として、現在も存続している。


「二百三高地」と「坂の上の雲」
映画「二百三高地」は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」とかぶる点が多い。顕著なところでは、陸軍大将・乃木希典を決断力に乏しい愚将として表現していることとか。
(乃木大将を勇敢な軍神として捉える派も根強く意見が分かれる。)

乃木希介
※以前赤坂にある乃木神社で撮影した乃木大将の肖像

なお、「坂の上の雲」は2009年秋からNHKによってドラマ化される。先日放送された予告編を観た感じでは、時間も手間もたっぷりとかけられているようで、かなり期待できそうだった。
これをして秋山兄弟ブームが再燃するかもしれない。

さて、ここで注意しなくてはいけないのが、司馬遼太郎の小説は多くの場合、自身も公言している通り多くのフィクションを含んでいると言うことだ。

例えば、男子大好き「竜馬がゆく」には司馬氏の創作キャラクターが大勢いる。(寝待ノ藤兵衛とか福岡お田鶴さんとか)
そもそも「龍馬」と区別するためにあえて「竜馬」を用いたのに、「竜馬がゆく」が余りに有名になりすぎたため"坂本竜馬"だと思い込んでいる人も意外と多い。

また「峠」をして、長岡の一家臣・河合継之助を世に知らしめた功績は大きいが、花街好きの色男として描いたのはやりすぎな気がする。

「坂の上の雲」もしかりで、それゆえか司馬氏は同書の映像化を望まなかったそうだ。

ドラマを観賞するに当たっても、このことは踏まえておきたい。


「二百三高地」のここだよ!ここ!
・仲代:乃木 vs 丹波:児玉
2大名優の口角泡を飛ばす応酬はかなり迫力がある。2人とも目力ありすぎ。

・故・夏目雅子
今となっては夏目雅子が観られるというだけでも、この映画には大きな価値がある。映画公開の5年後、白血病のため他界。合掌。

・「防人の詩(さきもりのうた)」
個人的には泣く映画ではないのだが、暗闇の中で涙をこぼす乃木大将が火種となり、ラストの嗚咽→「防人の詩」のつなぎは来るものがある。
なお、本作181分と長いため前後半の2部構成になっている。そのため「防人の詩」もいいところで2度流される。


これもオススメ
「八甲田山死の彷徨」 新田次郎著
日露戦争前夜、極寒の戦線を戦うための訓練として行われた八甲田山での雪中行軍は、199名の死者を出す山岳史上最大の遭難事故となった。当時の軍部の無茶苦茶ぶりがうかがい知れる小説として面白い。山田少佐がとにかく感じ悪い。
(映画化もされているが未見のため、小説のみ紹介)







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 Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」
 Vol.5 「ヒトラー 〜最後の12日間〜」
 Vol.4 「戦場のピアニスト」
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 Vol.2 「炎628」
 Vol.1 「西武戦線異状なし」
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2008年04月09日

戦争映画 FALL IN!! Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」

ジョニーは戦場へ行った英タイトル: Johnny Got His Gun
公開年: 1971年
製作: アメリカ


ハリウッド・テン(後述)の1人、ダルトン・トランボが自身の小説「ジョニーは銃を取った」(1939年)を映画化。
必死に「俺を助けてくれ、どうか殺してくれ」と声にならない悲痛な叫びを上げるジョーの姿は観る者に強烈な印象を残す。通称「ジョニ戦」(ウソ)。


ストーリー
愛するカリーンに別れを告げ、第一次世界大戦に出兵したジョー。しかし、戦場で爆撃を受けて負傷し、病院に搬送される。無事だったのは延髄と性器のみで、目も耳も口も鼻も失い、手足は切断されてしまう。ジョーは過去を回想しつつ、現実に絶望し、自らの死を望むのだが・・・。
(Wikipediaから修正引用)


そろそろヨーロッパ戦線を一時離脱しようかなということで、継投でVol.1同様、舞台やイデオロギーに関係なく「反戦」を明確なテーマとしている本作を選んでみた。

未見の方のために最初に言っておかねばならい。
今回の「ジョニ戦」もVol.2「炎628」と同系統、

つまりトラウマ系映画である。


グロいシーンは一切ないが、救いがない度合いだけで言うとこっちの方が上をいく。
反戦映画の代表というより欝映画の代表として有名かもしれない。

さらにどんよりさせる要素として、この話、実話を基にしている


「ジョニーは戦場へ行った」の背景

― 1998年、アカデミー賞名誉賞の授賞式。会場は異様な空気に包まれていた。

直立して祝福の拍手を送る者、
拍手はするが席は立たない者、
拍手どころか顔をしかめ腕組みする者、
三者三様であった。

受賞者の名前はエリア・カザン

アクターズ・スタジオの創設に関わった人物で、ハリウッドの発展に大きく寄与し、名誉賞の受賞に値する経歴の持ち主だった。

しかし、彼には暗い過去があった。

時は二次大戦後、冷戦モードに突入した1940年代後半。
レッド・パージ=赤狩りの嵐が西側諸国に吹き荒れ、徹底した共産主義者排斥が行われた。
その波はハリウッドにも押し寄せ、大きな影響力を持つ映画関係者の中にも共産党員がいないか調査が進められ、疑いのあるものには容赦ない圧力がかけられた。

チャップリンブレヒト(Vol.3終盤で紹介)といった大物も、レッド・パージの果てにアメリカを追われ、ヨーロッパへと渡った人物たちである。華やかなハリウッドの世界にはこんな黒歴史があったのだ。

エリア・カザンにも共産党員の疑惑がかけられた。(実際に元共産党員だった)
疑惑を晴らすため、エリア・カザンは司法取引に応じ、疑わしい人物の名前を売った。
つまり、「密告者」となったのだ。

一方、カザンとは逆に、証言を頑なに拒否した10人の映画監督・脚本家たちがいた。
彼らはハリウッド・テンと呼ばれ、言論の自由を掲げて司法の場で争うが、結局敗訴してショービジネスの世界を追われた上、刑務所送りとなった。

本作の原作・脚本・監督のダルトン・トランボは
そんなハリウッド・テンの1人であった。


しかし、トランボはめげなかった。
釈放後も偽名を使い、身分を隠して精力的に執筆活動を続ける。

1953年、トランボはイアン・マクレラン・ハンターの名を借りて「ローマの休日」を執筆した。言わずもがなではあるが、「ローマの休日」はオードリー・ヘプバーンという世界的スターを産み、今に語り継がれる大ヒット映画となって、その年のアカデミー原案賞を受賞した。

1956年には、ロバート・リッチ名義で「黒い牝牛」を執筆、こちらもアカデミー原案賞を受賞。
なお、アカデミー原案賞は1956年の「黒い牝牛」をもって廃止された。廃止の理由は明かされていないが、一説ではロバート・リッチがハリウッドを追放されたダルトン・トランボであると気づいたためだという。

その後1960年に「スパルタカス」、「栄光の脱出」でようやくハリウッド復帰を果たした。


そんなトランボの悲願が、「ジョニーは戦場へ行った」の映画化だった。

本作は小説の段階で、幾度も発禁処分となり、アメリカが戦争をする度に絶版、復刊を繰り返していた。
紆余曲折の果てに、1971年トランボ自らがメガホンを取って、小説発表から30年越しに映画として結実させた。
なお、当時アメリカはベトナム戦争の真っ最中。よく公開できたものだ。
結果として、アメリカでこそヒットしなかったものの、ヨーロッパや日本では高い評価を得る作品となった。


一言で言うと
俺的率直な感想は、
すっごい前向きな姿勢で、すっごい後ろ向きな
映画を作ったんだね、

といったところ。


ところで、実話が基である、と前述したが、モデルとなったイギリス人将校は一時大戦で被爆して四肢と耳、眼、口を失いながら15年間、闇の中を生きたのだという。
意識はあったのだろうか?ただ死を待つというのはどういうことだったのだろうか?
・・・頭が重くなってきたので、この辺にしておこう。


「ジョニ戦」の「へえ」
最後に、いくつか観賞ティップスを紹介。

本作の主人公はジョーなのにタイトルは「ジョニー」。
なぜかというと、タイトルは「ジョニーよ、銃を取れ」("Johnny, get your gun")という一時大戦時にアメリカが志願兵募集のために用いたスローガンを皮肉っているから。

知らなかったけど、IMDBをチェックしたら、キャストにダルトン・トランボの名がある。演説者(Orator)ってことだけど、そんな人いたかな?これから観る方がいたら探して教えてください。

若かりしドナルド・サザーランドが「キリスト」と呼ばれる役で出ている。
Donald Sutherland
こうして見ると息子のキーファー(ジャック・バウアーね)とそっくりだ。
Kiefer Sutherland


似ている小説
原作小説「ジョニーは銃を取った」を遡る10年前、江戸川乱歩が発表した短編小説「芋虫」は「ジョニー〜」とよく似ている。
トランボが影響された可能性は低いが、戦争で四肢と視覚、触覚を除く五感を失うという設定や、戦時中に発禁を喰らったという点が共通している。
もっとも乱歩には反戦的意図は全くなく、彼独自の屈折した世界観を表現したにすぎないらしいが。焦点も変わり果てた夫に倒錯的サディズムを抱く妻に当てられている。


無関係リンク
申し訳ないほど無関係だけど、「闇の中を生きた」でふとカスパー・ハウザーのことを思い出したのでリンクを貼ってみた。
Wikipedia
x51の記事





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2008年04月06日

戦争映画 FALL IN!! Vol.5 「ヒトラー 〜最期の12日間〜」

ヒトラー 〜最期の12日間〜独タイトル: Der Untergang
公開年: 2004年
製作: ドイツ・イタリア・オーストリア合作


「ドイツ人がヒトラーの映画を作った」 ― これだけで話題性十分の1本。物語は邦題の示す通り、独裁者ヒトラーの末期を実在の女性秘書の視点から再現したもの。ブルーノ・ガンツがとにかく似ていると話題になったが、似すぎていただけに議論を呼んだ作品でもある。


ストーリー
1945年4月20日、ベルリン。迫りくるソ連軍から身を守るため、ナチス党総統アドルフ・ヒトラー(ブルーノ・ガンツ)は、ごく限られた身内や側近たちと共にドイツ首相官邸の地下にある要塞へ退却。ヒトラーの個人秘書であるトラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララ)もその中にいた。側近たちはすでに敗戦を確信していたが、客観的な判断能力を失っていたヒトラーだけが、不可能な大逆転の作戦について熱く語り続けていた。やがて側近たちの逃亡、裏切りが相次ぎ、ヒトラーは最終決戦を決意。
(goo映画あらすじから抜粋)


お気づきかもしれないが、Vol.1からここまで一貫してヨーロッパ戦線についての映画を取り上げ、その全てにドイツが関係している。

お陰でナチズムは突如沸いて出たわけではなく、一次大戦後の列強による圧力、屈辱、貧困の結果、じわじわと育ってきたということが見えてきた。

映画は邦題が示す通り、もはやドイツの敗戦が決定的な状況を描いている。
なので、今回はナチス党がドイツ国内で頭角を表していく背景を追ってみた。


「ヒトラー 〜最期の12日間〜」の背景
1934年、国家元首の座についたヒトラーは国民投票の結果90%の支持率を得ていた。

驚きの数字である。
アドルフ・ヒトラーといえば、すぐさま悪の権化、サタンの申し子といったイメージで捉えられることが多い。しかし、これだけの支持を受けた背景として、彼に民衆を惹きつける魅力があったことは間違いない。

さえない画学生だったヒトラーはどうしてドイツ国民の熱狂的な人気を勝ち得たのだろうか?


1. 経済復興
1919年、第一次大戦敗戦の後に生まれたヴァイマール共和国は、理想的な憲法を掲げ、復興を目指したものの、1320億金マルクという気の遠くなる賠償金アルザス・ロレーヌ地方、ルール地方といった重要な経済拠点を奪われるなど、列強の締め付けに苦しんだ。
(この辺の話はVol.3でも触れた通り。)
ドイツ経済はハイパーインフレーション状態に陥り、紙幣は紙切れと化した。

シュトレーゼマン外交、アメリカの仲介による賠償金減額(ドーズ案、ヤング案)により、一時は復興の兆しを見せるが、世界大恐慌が決定的なクリティカル・ヒットとなる。

街には失業者が溢れ、社会不安は募る一方だった。


そんな中、ナチス政権は誕生した。
ヒトラーは第一帝国(神聖ローマ帝国)、第二帝国(ドイツ帝国)に次ぐ第三帝国を標榜し、ドイツ民族の歴史的な優秀性を鼓舞する。「ドイツ人よ、卑屈になるな」と。

そして首相就任演説において、ヒトラーは
「ドイツ国民よ、私に4年の猶予を与えよ。」
と宣言し、失業の解消と国民生活の向上を公約した。

首相就任演説の映像


ヒトラー自身は経済に疎かったが、経済大臣にシャハトを登用し、アウトバーンの建設に代表される公共事業を打ち立て、雇用を創出した。

その結果、4年後には完全雇用を実現し、ドイツはアメリカに次ぐ第2の経済大国となった。

つまり、公約を本当に実現したわけだ。


2. 宣伝
ナチスは宣伝という手法を政治に取り入れ、大いに活用した。
宣伝大臣という新たなポストに就いたヨーゼフ・ゲッベルスはメディアを活用することの重要性を熟知し、その方法も知っていた。

その代表例は以下の通り。

・ベルリン・オリンピック(1936年)
テレビ中継が史上初めて行われたのは実はベルリン・オリンピックで、盛大な開会式や開会宣言するヒトラーの様子がベルリン市内に放送された。
また、女性映画監督レニ・リーフェンシュタールに、「オリンピア」というプロパガンダ映画も制作させる。

・ラジオの普及
ゲッベルスは高価だったラジオを格安で販売しその普及を促し、メインストリーム・メディアとなったラジオを通じてヒトラーの演説を国民に伝えた。

・イメージ戦略
ナチス高官の写真には修正が加えられ、徹底したイメージ操作が行われていて、国民に「英雄的」イメージを植えつけていた。

↓ナチスのナンバー1、2、3の肖像。いずれも"よく撮れている"。
ヒトラーゲーリングヒムラー
※左からヒトラー、ゲーリング、ヒムラー

実際にはヒトラーは髪が薄かったし、ゲーリングはぶっくぶくに太っていたし、ヒムラーは凡庸な小役人的風貌だったという。

こうして扇動されたドイツ国民は「退廃」に向かって進んでしまったわけだ。


ナチス高官の最期
ヒトラーとゲッベルスの最期は映画の中に登場するが、他の高官たちのその後は最後にごく簡単に紹介されているだけ。なので、ここで彼らの足取りをまとめてみた。

ヘルマン・ゲーリング
国家元首。ニュルンベルク裁判後、死刑が確定したが、執行直前に青酸カリをあおって自殺。どうやって青酸カリを牢屋に持ち込んだのか謎とされていた。当時19歳の米兵が万年筆に仕込んだ青酸カリを街角で出会ったドイツ人女性に「常備薬だから」と渡された、という話がつい最近出回ったが、真相は不明。
彼の死体は焼却され、遺灰は川に捨てられた。

ハインリヒ・ヒムラー
親衛隊(SS)最高司令官・秘密警察(ゲシュタポ)長官。彼のトレードマークであるヒゲを剃り、メガネを眼帯に変えて2人の部下と共に逃走。ドイツ北部のイギリス軍の検問所で捕まる。尋問キャンプに連行され、身体検査中に奥歯に仕込んだ青酸カリのカプセルを噛んで自殺。
服毒に気づいた軍医たちは水の入ったボールに頭を押し込むなど救命処置を試みたが、15分後に絶命したという。

マルチン・ボルマン
総統秘書長。ヒトラーの信頼を得て党内でめきめき出世し、ヒトラーの最期を見届けた一人。遺言によりナチス党首に任命されるが、ベルリン脱出を試み足取りが途絶えた。ボルマンの生死は長年不明で様々な憶測を呼んだが、1972年ベルリンのヴァイデンダム橋近郊で見つかった2つの死体のうち1つがボルマンのものであると認定された。(もう1体はヒトラーの主治医のもの)死体には服毒自殺の痕跡が見られたらしい。
が、未だボルマンの国外逃亡説を信じる者も多い。

ルドルフ・ヘス
ナチ党副総統。ヒトラーの長年のシンパで、ミュンヘン一揆後ランツベルク刑務所収監中に「我が闘争」を口述筆記した人物。鬱病気味だったヘスは既にヒトラーの信用を失っていた。1941年、停戦交渉のため単独飛行でイギリスに飛んだが、ロンドン塔に送られた。従って、映画には登場しない。
ニュルンベルク裁判で終身刑を言い渡され、シュパンダウ刑務所に服役。
1987年、ヘスは服役中の所内でコードが首に絡まって死亡しているのを発見された。ヘスの死については、自殺説(公式見解)、殺害説、更には戦中替え玉説まで諸説紛々。

ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
外務大臣。日独防共協定(1936年)や独ソ不可侵条約(1939年、モロトフ・リッベントロップ協定)を締結した外交官。党内ではゲッベルスに疎まられていた。ニュルンベルク裁判により絞首刑。

アルベルト・シュペーア
軍需大臣。作中、地下壕を訪問しヒトラーと会見した人物。
ヒトラーお気に入りの建築家で、ヒトラーは自身が果たせなかった芸術家としての夢を彼に託していたというが、後にヒトラーと袂を分かつ。
ニュルンベルク裁判では禁固20年の判決を受け、ナチス高官のうち唯一極刑を免れた。1981年、ロンドンにて死去。

アドルフ・アイヒマン
親衛隊中佐。ホロコーストの中心人物。
米軍に捕縛されるも、巧妙に逃亡を図る。ドイツ→イタリア、そして中立国アルゼンチンへと渡る。のちに家族を呼び寄せて、ブエノス・アイレスで平凡な生活を送っていた。
戦後イスラエル情報機関モサドヴィーゼンタール・センターによって、ナチス残党狩りが始まり、600万人の同胞を葬ったアイヒマンは第一の標的であった。
1960年、モサドはベンツ工場で働くリカルド・クレメントという男をマークした。ある日、男は帰宅途中に花束を買った。それを見たモサドはこの男こそ標的であると確信する。なぜなら、その日はアイヒマンの結婚記念日だった。
アイヒマンはイスラエルへと送られ公開裁判にかけられた後、1961年に絞首刑に処された。
アイヒマン裁判での有名な一言。「私はただ命令に従っただけだ。」

ちなみに本作の監督オリヴァー・ヒルシュビーゲルが撮った映画「es」は、スタンフォード監獄実験を基にしており、さらにその基になった実験はアイヒマン実験と呼ばれる。


おまけとして、1972年から1981年まで2期連続で国連事務総長を務めたクルト・ヴァルトハイムは、元ナチス突撃隊の将校だった。(発覚は事務総長辞任後)2007年6月に、心不全によりこの世を去る。


観賞のツボ
・2人の主人公
本作の主人公はヒトラーではない。1人は秘書のトラウドゥル・ユンゲであり、もう1人はベルリンの少年ペーターだ。
トラウドゥルは地下壕の中で焦燥し失墜する権威の模様、ペーターは戦火の中カオスに陥るベルリン市街の模様を観るものに伝える。
交わることのなかった2人は物語終盤、小さな接点で結ばれることになる。

・タバコ
ヒトラーはタバコ嫌いで、喫煙を禁じていた。にもかかわらず、作中たびたび喫煙のシーンが登場する。これはヒトラーの権力が"Der Untergang" ― 「凋落」していたことを象徴している。


併せてどうぞ
「アドルフに告ぐ」 手塚治虫著
俺的手塚マンガの最高傑作。幾重にも重なる社会情勢、深い人物描写、手に汗握るストーリ展開、ありきたりでないメッセージ性、完璧っす。
読み返すとその度に発見がある。情報収集も今ほどままならない時代によくぞここまで重厚なストーリーを紡ぎ出したものだと感嘆する。特にアドルフ・カウフマンがナチズムに傾倒していくさまは必読。


参考文献
「ヒトラーの秘密警察」 ルパート・バトラー著 / 原書房刊




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 Vol.6 「ジョニーは戦場へ行った」
 Vol.4 「戦場のピアニスト」
 Vol.3 「戦争のはらわた」
 Vol.2 「炎628」
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posted by n-o-b.net at 15:00| Comment(3) | TrackBack(0) | ■ 戦争映画 FALL IN!! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月29日

戦争映画 FALL IN!! Vol.4 「戦場のピアニスト」

戦場のピアニスト英タイトル: The Pianist
公開年: 2002年
製作: フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作


ご存知パルムドール受賞作。舞台は第二次大戦下のポーランド。天才的ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの命からがらな逃亡生活を、ゲットーでの実体験を持つロマン・ポランスキーが監督した大作。



ストーリー
1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。ワルシャワのラジオ局でピアノを弾いていたウワディスワフ・シュピルマンとその一家は、ユダヤ人に対するゲットーへの移住命令により、40年住み慣れた我が家をあとにする。ナチスの虐殺行為がエスカレートする中、ウワディスワフはカフェのピアノ弾きとして日々を過ごす。42年、シュピルマン一家は大勢のユダヤ人と共に収容所へ送られるが、ウワディスワフは警察の友人の手で一人収容所行きを免れた―。
(goo映画あらすじから抜粋)


個人的に試写会で1回、劇場で2回の計3回観賞した人生史上初の映画
弾きたくても弾けずエアーピアノで我慢するシュピルマン、助かったと思ったら間違ってソ連兵に殺されそうになるシュピルマン、視界の限り続く瓦礫の中で行き場もなく佇むシュピルマン。

すごくいい。とにかくいい。



毎度、エンドロール中に席を立つ観客に「頼むから最後まで座っててよ」と心中願った作品。

初めて最近作の紹介だが、未見の方がいたらむしろありがたい。
これから語る話を斜め読みしてから、それそれTSUTAYAへGO!

Vol.3の内容を踏まえているので、先にそちらを読まれることをお勧めする。


「戦場のピアニスト」の背景
「シンドラーのリスト」、「ライフ・イズ・ビューティフル」、「コルチャック先生」、「アンネの日記」、そして「戦場のピアニスト」と、ぱっと思いつくだけでもユダヤ人迫害に関する映画は山のようにある。

ではご存知だろうか?
ナチス・ドイツがユダヤ人のホロコーストを目論んだその理由を。

案外、明確な回答をできる人は少ないのではないかと思う。
例えばこんな回答が想定されるところだろうか。

「キリストを裏切ったユダがユダヤ人だったから」
→キリスト教 × ユダヤ教対立の原点として、蔑視を生む土台ではあったが、ホロコーストの直接的原因としては不十分。第一ナチスとキリスト教は関係ない。
「ヒトラーがユダヤ人を下等人種として宣伝したから」
→ナチスの言い分の1つだが、所詮は突飛な仮説。重要なのはなぜ民衆がこの誇大妄想的仮説を信じたかという動機の方。
「ヒトラーは自らに4分の1ユダヤの血が流れていることを呪ったから」
→そういう説もあるが、真偽はともかくヒトラーの個人的問題に過ぎず、民衆には関係ないこと。

多分、世界史の教科書でも理由については詳しく書いていなかったように思う。
しかし、その答えははっきりしている。

ヒトラーが図ったのは国際ユダヤ金融資本、さらに一言で言ってしまえば

ロスチャイルド家の殲滅である。


突っ込みもあるとは思うが、少なくともロスチャイルドが"金満ユダヤ人"の象徴となり、民衆がナチスに同調し迎合した理由はこれだ。


【ユダヤ人とは?】
まずはユダヤ人そのものの定義に言及する必要があるだろう。

ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々、またユダヤ人の母から生まれた子のことを指す。

どちらかと言えば人種より宗教的な枠組みの方が強い。大雑把な話、日本人でもユダヤ人と結婚し、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になれる可能性がある。
(実際には異教徒との結婚は歓迎されない上、改宗しても厳しいテストがあるのでかなり難しい)


彼らの受難の歴史は旧約聖書の時代にまで遡る。その長い物語については割愛するが、2,500年前バビロン捕囚後に解放されたユダヤ人が離散し、多くのディアスポラ(離散者)が各地へと散っていった。

ディアスポラたちは移住先で「よそもの」として扱われ、ヨーロッパでは後にゲットーと呼ばれる居住区にしか住むことができず、職業も自由に選択することは許されなかった。
許されていた職業は、キリスト教の世界ではご法度だった金貸しや質屋(利息を取るから)、金の保管人、宝石細工師などの「あさましい」仕事だけ。


【ロスチャイルド家の誕生】
そんな中、18世紀中頃のドイツはフランクフルトに赤い盾の看板を掲げる1軒のユダヤ商店が誕生する。
店主は赤い盾Red shieldRothschildを屋号とし、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドと名乗った。

歴史上初めて登場する初代ロスチャイルドその人である。
以降、子々孫々に渡って雪だるま式に富を築き、教科書に残る事件のフィクサーとして、世界史に君臨する一族の物語が始まる。

マイヤー・アムシェルは古銭販売と両替商を生業とし、一握りの財産を手にした。
伝説では、今際の際に5人の息子を呼び、それぞれヨーロッパ諸国に渡り、根を下ろすことを命じたという。

ロスチャイルド5兄弟息子たちは父の遺言を忠実に守り、
長男:アムシェル・マイヤー → ドイツ、フランクフルト
次男:サロモン → オーストリア、ウィーン
三男:ネイサン → イギリス、ロンドン
四男:カール・マイヤー → イタリア、ナポリ
五男:ヤコブ(ジェームズ)・マイヤー → フランス、パリ
と離散し、"ディアスポラ"として土地土地でビジネスを展開する。

※写真上から時計回りにアムシェル、サロモン、カール、ヤコブ、ネイサン


最初に頭角を現したのは三男ネイサンだった。
彼は類まれなる相場士の才能を発揮し、わずか数年でロンドン・シティでその名を噂される存在となった。遂には、"英雄"ナポレオン最後の戦争、ワーテルローの戦い(1815年)で自作自演の仕手戦を仕掛け、たった2日で濡れ手で粟のボロ儲けをした。

5人兄弟は、ヨーロッパ中をネットワークし、それぞれの持つ情報をいち早く伝えあうことで、誰よりも早く相場の動きを察知することができたのだ。(ワーテルローの時、伝書鳩がドーバー海峡を渡った話は有名)
彼らは親族の絆を重んじて同族結婚を繰り返し、不動の血族を形成していった。


以下、ロスチャイルド家が介在したと断定できる事件の一部を列挙してみよう。

アヘン戦争(1840年)、セポイの反乱(1857年)、スエズ運河の買収(1875年)、
ボーア戦争(1880年)、日露戦争(1907年)、第一次世界大戦(1914年)、
ロシア革命(1917年)、世界大恐慌(1929年)、イスラエル建国(1946年)などなど。



ちなみに、現代の経済界でもロスチャイルド家の影ははっきりと確認することができる。以下、昨今のロスチャイルド系企業のほんの一例。

金融:ロスチャイルド銀行、ゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザーズ証券(ライブドア事件のフィクサー)、ソロモン・ブラザーズ証券(現在はシティ・グループ。平成バブル崩壊のフィクサー)、アメリカン・エクスプレス、モルガン・スタンレー、リップルウッド(旧長銀、新生銀行を買収→売却でがっぽり)
鉱業:アングロ・アメリカン(金銀銅など)、リオ・ティント(ウランなど鉱物)、デビアス(ダイヤ)
保険:ロイズ保険組合
穀物:穀物5大メジャーのうちコンティネンタル・グレイン、ブンゲ、ルイ・ドレフュスの3社
食品:ネッスル、ユニリーバ(リプトン、ブルックボンドなど)
石油:ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)
ファッション:カルティエ、LVMH
酒・タバコ:LVMH、ギネス、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ
レジャー:地中海クラブ(クラブメッド)、マンダリン・オリエンタルホテルグループ(アヘン貿易で儲けたジャーディン・マセソン系)
映画:ハリウッドメジャー・スタジオのうちMGM、20世紀フォックス、パラマウント、ワーナー・ブラザーズ、ユニバーサル



未だに世界の金・ダイヤの価格を決めているのはロスチャイルドだし、目下日本でも大騒ぎしているけど、石油による利権は対抗するロックフェラー系かロスチャイルド系が二分している。

他にもワイン好きであれば、知らぬ者はいないボルドーのラフィット・ロートシルト(Chateau Lafite Rothschild)、ムートン・ロートシルト(Chateau Mouton Rothschild)の2大シャトーはその名の示す通り、ロスチャイルド家のもの。


― 話がそれた。
時代を巻き戻すと、第一次大戦後、泥をなめる不況に喘でいたドイツ国内において、"金満ユダヤ人"に対するやっかみが起きるのは無理もない話であり、ナチス・ドイツはこの不満につけこんだのだ。
宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス指揮の下、ナチスは巧妙に苦境の原因をロスチャイルドに負いかぶせた。

当時の大衆の心情を如実に反映した言葉を引用しよう。
「ヒトラーは言葉巧みに我々を扇動した。しかし、あいつが喋る言葉の中にいくつかの事実があったから誰もが飛びついてしまったのだ。」

ユダヤ人の風刺画
ナチスがポーランドで配った風刺画。キャプションは「ポーランドの本当の現実」みたいな意味。

ゲッベルスのプロパガンダはうまくいった。
結果、ドイツ国民の憎しみは燃え上がり、何百万人というユダヤ人は絶滅収容所へ送られ、ロスチャイルド家もオーストリア、フランス、同盟国イタリアと勢力を拡大したナチス・ドイツの前で息もたえだえの痛手をこうむった。

しかし、誤解を避けるために、ここではっきりと明言しておかなければならない。

確かにロスチャイルド家は莫大な財産を保有していた。
だからといって、迫害され虐殺された多くのユダヤ人もそうであったかといえば、それは事実と異なり、あるものは現地の生活に溶け込んで慎ましく暮らし、あるものは変わらずゲットーで糊口をしのいでいた。
つまりは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の心理であり、ほとんどは完全な"とばっちり"であった。シュピルマンもその被害者の1人ということになる。

いずれにしても、なんぼ恨みがましいとはいえ、武力によって財産を収奪することは狂信的暴力行為に他ならない。


以上、長くなったがホロコーストの裏にはこのような社会背景があった。

車椅子ごと窓から落とされたり、ドレミファ形式で処刑されたり、血も涙もない蛮行にドイツ兵を駆り立てた感情はこのように醸成されたのだ。

このことを念頭に置いて映画を鑑賞すると、また違った観点が生まれるのではないだろうか。


ポランスキーだからできたこと
監督のロマン・ポランスキーの壮絶な人生についても触れておこう。
彼はユダヤ人として生まれ、実際にゲットーで生活した経験を持ち、母親はナチスに殺されている。

彼の受難はここに始まるが、映画監督として成功しアメリカに渡ってからも妻の女優シャロン・テートをお腹の子もろともマンソン・ファミリーに惨殺される悲劇に遭う。

その後、精神崩壊をきたしたとも噂され、少女に対する性犯罪で告発されたのち、アメリカを逃げるように出国した。
ゆえに「戦場のピアニスト」でアカデミー監督賞を受賞するも、アメリカに入国することはできなかった。(逮捕されちゃうから)

ポランスキーは本作の監督に対するオファーを何度も断ったという。
無理もない話だ。しかし、結果として自らのトラウマをなぞり、この作品を世に送り出した執念に敬意を表したい。