英タイトル: The Killing Fields公開年: 1984年製作: アメリカ国民の約4分の1から3分の1が失われたカンボジア内戦を描いた数少ない(あるいは唯一?)ハリウッド映画。実際に大虐殺の時代を生き抜き、死屍累々の"キリング・フィールド"から生還したプラン役ハイン・S・ニョルが助演男優賞を受賞している。
■ ストーリー1973年8月。NYタイムズの記者シャンバーグ(サム・ウォーターストン)は、アメリカを後楯にしたロン・ノル政権と、反米革命派勢力、クメール・ルージュとの闘いが表面化したカンボジアの首都プノンペンに降り立つ。カンボジア人のディス・プラン(ハイン・S・ニョル)が、現地で彼の通訳・ガイドとして仕事を助けてくれることになった。75年、ロン・ノル政権はついに崩壊、クメール・ルージュを率いるポル・ポト政権が誕生する。
次第にシャンバーグら外国人記者の安全地帯も徐々に縮小されに、ついに国外へと避難する。しかし、カンボジア人のプランは国外脱出が叶わずクメール・ルージュに連行されていくのであった。
(goo映画あらすじを大幅に加筆修正)
最初にはっきり言ってしまうと、
この映画はカンボジア内戦の入門的作品である。 悪く言えば、表面的で、当時の戦戦慄慄なカンボジアの国状に肉薄しているとは到底言いがたい。
(あくまで私見) なので、カンボジア内戦について本当に知りたければ、後に紹介する別のソースを推薦したい。
入門映画にならしめた理由として、主人公のアメリカ人記者の目線を主軸に据えていることがあり、内戦の当事者であるカンボジア人の心情が表面的にしか描かれていない。結果シャンバーグとプランの友情物語に終わっている。
さらにそこに虚構=映画的ウソを加えているので、観る人が観ればもどかしさを感じずにはいられないだろう。 しかし、
後半クメール・ルージュから逃れるプランの逃走劇は真に迫るものがあり、この部分だけで2時間やってくれればよかったのにと思う。 また、音楽の選曲がかなり不可思議で、クライマックスで流れる
「イマジン」 はまだよいとしても、エンドロールでクラシック・ギターの名曲
「アルハンブラの思い出」 を、しかもこのトレモロの名曲をなぜか単音で流すセンスは全く理解不能であった。
と、半ば批判的なイントロになったが、「キリング・フィールド」の功績は、ハリウッドパワーで歴史の闇に埋もれつつあったカンボジアの大虐殺を世に知らしめたことにある。
ベトナム戦争の映画は数限りなくあるが、カンボジア内戦を描いたハリウッド映画は知る限りこれだけ で、アカデミー助演男優賞に加え、撮影賞、編集賞も受賞したことも考えると注目度はかなり高かったと言える。
また、現代の日本ではもはや
「ポル・ポト派」 、
「クメール・ルージュ」 という言葉すら人々の記憶から風化しつつあると思うが、実は30年越しの2006年に始まった「クメール・ルージュ裁判」
(当時の最高幹部5〜10人を人道の罪で裁く裁判) の費用の4割、実に2160万ドルを出しているのは他ならぬ日本だ。
せめて何があったのかを知る入門として考えると、「キリング・フィールド」は決して悪い選択肢ではない。
■ 「キリング・フィールド」の背景まずもって沸き起こる疑問はこれであろう。
なぜカンボジアで大虐殺が起きたのか? これについて紐解いてみたいが、その前段として
Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」 の背景でインドシナ半島の状況について軽く触れた。
今回はさらに世界地図を広げてみたい。
そもそもの話で言うと、カンボジア内戦はその名の通り戦時国際法の適用も曖昧な内戦=Civil Warである。
しかし、カンボジアを戦乱の渦に巻き込んだ状況、東西の代理戦争であったベトナム戦争から受けた影響を考えると
カンボジア内戦は内戦の枠には収まらない。 ここで1975年、冷戦の下に二極化した東西勢力図をまとめてみた。
※クリックで拡大 一目ではわかりにくいが、これでもめいいっぱい簡略化しており、現実ははるかに複雑。
上記を見てもわかる通り、東西陣営は険悪なにらみ合いの末、直接的なぶつかり合いを避け、将棋の駒でも動かすように第三国の内乱に手を出し口を出し、なんとも底意地の悪い歪んだ世界を作り出した。
自分は、
カンボジアの内戦そして大虐殺はこの歪んだ東西軋轢の果てに生まれた「膿み」のようなものだと考えている。 具体的な対外関与を見てみよう。
中国との関係 精神面においても実行動においても、
クメール・ルージュを培養したのは中国共産党、さらに言えば毛沢東である。 クメール・ルージュ率いるポル・ポトは、
毛沢東主義=マオイズム の狂信的支持者であり、
農村社会への回帰、都市型帝国主義の否定 という思想も毛沢東の受け売りだ。
また、時代的にも
文化大革命 ※ の終末期とクメール・ルージュの台頭期は符合する。
※毛沢東によって行われた"改革運動"。その実は反対派の粛清であり、1000万から2000万の人々が殺害された。 こうしてマオイズムの後継者として
ポル・ポトは、都市の住民を農村へと移住させ、強制的に農作業に従事させた。そして、医者、学者、教師などのインテリは生産を行わず搾取を行う対象として、すべからく連行し、拷問・抹殺した。 メガネをかけているだけで、抹殺対象にされたと言うから恐ろしい。また身体障害者など欠陥を持つ者も「無用」として容赦なく殺された。
中国共産党側もクメール・ルージュへの援助を惜しまず、蜜月の関係が成立していた。
アメリカとの関係 Vol.10で書いた通り、シアヌーク国王を追い出した
ロン・ノル軍事政権を操り、カンボジア内戦の火種を作ったのはアメリカだ。 火種どころか1970年には南ベトナム軍と共にカンボジアに侵攻し、
なんと二次大戦で日本に投下した総量の3倍の爆弾を放っていった。 ところが、1973年にベトナム戦争から撤兵すると、急激にインドシナ半島から興味を失い、火だけ着けて後は
「対岸の火事」 にしてしまった。
また、1978年に結実した米中国交正常化への動きもあり、中国が支援するクメール・ルージュとことを荒立てたくない、という思惑もあったと思われる。いずれにせよ、結果的にアメリカはポル・ポト派の虐殺を見て見ぬふりしたことになる。
それどころか、冷戦下の複雑なもつれの果てに、クメール・ルージュ政権崩壊後、介入したベトナム軍と戦うクメール・ルージュゲリラに資金援助を行っている。
ベトナムとの関係 ベトナムはクメール・ルージュにとって最も忌むべき存在 であり、国民はベトナム人(ユーン)への憎悪と殺意を徹底して教育された。
根は深いが、直近のきっかけはカンボジア侵攻である。
上の図を見ての通り、
同じ共産主義でありながら当時中国とソ連は対立していた。 カンボジア侵攻において、
カンボジア(中国支援) × ベトナム(ソ連支援) という、ここでも小さな代理戦争が展開されたのだ。
まさに
赤同士、血で血を洗う泥沼戦争 であり、ここにも冷戦当時の複雑怪奇な世界の歪みを観察することができる。
クメール・ルージュは政権奪取後、幾度となくベトナムへの侵攻を繰り返し、1978年4月には国境の村の3,000名を超える住民を虐殺した。これを機にベトナムは本格的にクメール・ルージュ掃討へと動き、翌1979年1月にとうとうクメール・ルージュ政権を打倒する。
ここに3年9ヶ月に及んだポル・ポト大虐殺の時代が終わりを告げた。 しかし、クメール・ルージュの残党はタイ国境のジャングルへと逃れ一帯を支配し、ポル・ポト自身も1998年まで生き長らえることになる。
日本との関係 当時の日本の外交は常にアメリカの顔色を伺う風見鶏的スタンスだった。
(つまり今と同じってこと) 確かに直接カンボジアに手を出したのはアメリカだったが、
ベトナム戦争以降、日本は軍隊の中継地、物資の供給地として機能し、濡れ手で粟状態だった わけだから、関与していないとは到底言えた言葉ではない。
そして極めて重要な事実として、日本は西側諸国として唯一ポル・ポト政府(正確にはカンボジア民族連合政府)を承認している。 1978年にはポル・ポトの義弟で副首相兼外務大臣だったイエン・サリの訪日が実現 したりと、それなりの関係を築いていたわけだ。
ちなみにイエン・サリは前述の「クメール・ルージュ裁判」の被告の1人で、日本はこの裁判に巨費を投じているのだから風見鶏っぷりも甚だしい。
また、ベトナム軍侵攻によるクメール・ルージュ崩壊後、ベトナムの傀儡ヘン・サムリン政権が樹立するが、ソ連が裏で糸を引いているベトナム傀儡政権を、西側に属する日本が支持できるはずがなかった。
こうして、日本は現実を熟知しつつも、アメリカやイギリスと同様に形骸化したクメール・ルージュ政権を支持し、カンボジア復興を遅らせる一因を作ったことになる。
以上、どうしたってややこしい話になってしまったが、
カンボジア内戦は「歪んだ東西軋轢の果てに生まれた『膿み』のようなものだ」 と言った理由がお分かりいただけたのではないかと思う。
■ おすすめ図書「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」 ルオン・ウン著
タイトルだけでもすでに禍々しいインパクトが伝わってくるかと思うが、この本は1人でも多くの人に読んでほしいと強く願う1冊だ。
上述したような面倒くさい歴史的背景や政治的背景は最小限にとどめ、
クメール・ルージュ政権成立当時まだ5歳の少女だった著者が実際に体験した地獄絵図を子供の目線で綴ったノン・フィクションである 。
クメール・ルージュ統治下のカンボジアが、いかに退行した原始的イデオロギーで国民を苦しめ、夢も希望もない困窮生活を強いていたかがよくわかる。
実話だけに読むにはちょっと覚悟がいる本ではあるが、最後までたどり着くと救いがあることもまた事実である。
なお、7年前この本を読んで以来悲願となったカンボジア来訪が叶ったのは今年4月のこと。
「キリング・フィールドからの生還―わがカンボジア『殺戮の地』」 ハイン・ニョル著
「キリング・フィールド」でアカデミー助演男優賞を受賞したハイン・S・ニョルの自著。(ミドルネームのSは偽名で使っていた"サムナン"を亡命後に本名に入れたらしい。)
ハイン・S・ニョルは演劇経験はゼロだったが、虐殺の歴史の生き証人としてその辛い過去を自らなぞったことはやはり賞賛に値する。
本書では映画をはるかに凌ぐ凄惨極まりないポル・ポト政権の実態が、直接的描写で語られている。自分は映画より先に本書を読んだがために、冒頭に書いたようなもどかしさを感じたとも言える。
氏はクメール・ルージュ以前、医師であったため、正体がばれれば真っ先に拷問され、殺される立場にあった。
どうやって虐殺の魔手を逃れ、また幾多の拷問と悲しみを乗り越え、アメリカ亡命を果たしたのか、きっとノン・ストップで読みきれる1冊だと思う。
なお、氏はポル・ポトの死より2年早い1996年、ロサンゼルスの自宅近くで強盗により射殺された。
最後に、YouTubeで見つけた「キリング・フィールド」の後半ハイライト部分の動画を引用しておく。これから全編をご覧になるという方はスキップされるといいが、上記を読んでもなんだかピンとこなかった、という場合要するにこういう映画だということがわかる動画です。
Vol.10 「地雷を踏んだらサヨウナラ」 ベトナム・カンボジア紀行[寅の巻] └トゥール・スレン虐殺博物館篇
ベトナム・カンボジア紀行[卯の巻] └プノンペン、キリング・フィールド篇