【ネパール編】
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[子の巻]・・・・・・9/26-27 ネパール入国
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[丑の巻]・・・・・・9/28 雨のエベレスト街道
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[寅の巻]・・・・・・9/29 一路ナムチェ・バザール
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[卯の巻]・・・・・・9/30 エベレスト・ファーストコンタクト
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[辰の巻]・・・・・・9/1 最後のチャンス
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[巳の巻]・・・・・・9/2 下山 ― 体調も下り坂
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[午の巻]・・・・・・9/3 カトマンズでウルルン滞在記
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[未の巻]・・・・・・9/4 古都パタンへ
■ ネパール・ヒマラヤ紀行[申の巻]・・・・・・9/5 さよならネパール
【タイ編】
■ タイ・バンコク紀行[前編]・・・・・・9/6 11年振りのバンコク
■ タイ・バンコク紀行[中編]・・・・・・9/7 何かの罠!アユタヤツアー
■ タイ・バンコク紀行[後編]・・・・・・9/8 夢は枯野をかけ巡る
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・9/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・9/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・9/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・9/5撮影
2007年10月26日
2007年10月25日
タイ・バンコク紀行[後編]
10月7日(日)
遂に迎えた最後日。
今夜、22:00の飛行機で日本に帰国することになる。
朝目覚めると、荷物を整理して帰り支度を整えるが、帰国便は夜なので、まだかなり余裕がある。
実はバンコクでストップ・オーバーできるとわかった時から、「ここだけは行きたい」というところを決めていた。
それは歓楽街として有名なパッポン通りの近くにある有馬温泉というタイ古式マッサージのお店。
※温泉っつっても温泉はない。
ここでトレッキング疲れを解消しようというわけだ。
そこには昼過ぎに行こうという話になったので、遅めの朝食を済ませても、まだ時間があった。
ところで、有馬温泉以外にもう1箇所行こうと思っていた博物館があったのだが、そこは土日は開いていないことを事前に知っていた。
しかし、この際ダメ元でということで、ソウ兄とは別行動で行ってみることにした。
チャオプラヤ川を水上バスで渡り、向こう岸へ。

プラ・ピンガウ橋(Phra Pin Klao Bridge)の上から
結局、その博物館は休みだったのだが、チャオプラヤ川から見るワット・プラケオ(エメラルド寺院)は美しかったし、何より若かりし頃に通った道をなぞる、というよい散歩になった。

遠いけど、エメラルド寺院
結果、帰りの水上バスがなかなか来ず、ソウ兄と約束した時間に大幅に遅れてしまったわけだが。
さて、いざ有馬温泉に行こうとトゥクトゥクを探すのだが、これが意外と難航する。
「パッポンまで」と行き先を告げると、「パッポンのどこに行きたい」と聞くので、ソウ兄「マッサージに行く」と答える。
すると、喜び勇んで違う方のマッサージ屋さんに連れて行こうとするので、「違う、普通のマッサージだ」と言って、腕を揉むジェスチャーをするソウ兄。
しかし、それは火に油を注ぐようなものだ。
「マッサージ」なんて余計な単語を使わなければよかったのだが、どっちにしても「パッポンに行きたい」と言うとそれだけで、「マッサージ?マッサージ?」といらんポン引きをしかけてくるのだ。
「いいからつべこべ言わずにパッポン連れてけよ」
と、折角ネパールで丸くなった心がささくれ立ってくる。
交渉の果てに、黙ってパッポンまで行ってくれそうな1台を見つけ、30分後には目的地に辿り着く。
実は有馬温泉を訪れるのは2度目なので、大体どういうものかは知っている。選ぶコースは迷わず2時間コース。
タイ古式マッサージは、総本山たるワット・ポーを始め、バンコク市内に数多あるが、ちょっと値段は張っても自分はここをお薦めしたい。
1つ気になる点を挙げるとすると、客の多くが日本人なので、マッサージ中に日本語が聞こえてきて集中できない、ということがある。
しかし、いずれにせよ30分もすれば誰もが言葉を発しなくなるのだが。
お値段は、400B。
もしバンコクに住んでいたら、きっと毎週通うこと請け合いだ。
プラス、店を出る時に担当の女性にチップを渡すわけだが、これがどうしても有馬温泉に来たかった理由の1つである。
というのも、11年前に訪れた時に、全くルールを知らなかったので、チップを払わなかった。
後で、「ああだから最後に手の平返したようにムスっとしていたのか」、と気づいたが後の祭り。
あの時の悔恨を晴らす意味でも、今回は少し多めにチップを渡した。
※ちなみに、有馬温泉はタニヤ通り(Thaniya road)にも支店があるが、サービスも料金も違う(若干高い)ので注意。
さあ、これで今回予定していた日程は全て消化したことになる。
まだ時間が残っていたので、ルンピニー公園(Lumphini Park)に行って、ぼんやりと、帰ってからのことを考える。

ベンチに座っていると、昔ルンピニー・スタジアムでキックボクシングをやっていた、という青年が話しかけてきたが、なんとなく会話が続かず、もう行こうかということになった。
全旅程を消化し、どっと旅疲れが出たのかもしれない。
シーロム駅(Si Lom)から電車に乗って、フアランポーン駅(Hua Lamphong)に出て、そこからトゥクトゥクでカオサンに戻る。
少しお腹が空いたので、屋台でミーを買って、ゲストハウスで食べる。30Bのご馳走。
食事をしていると、新しく西洋人のカップルがバックパックを背負って入ってきた。
ここに泊まろうか迷っていたので、「きれいだし、いいとこだよ」と本当のことを言ってみた。
よく考えれば、ゲストハウスのエントランスで屋台の麺をすするアジア人、どう見ても「中の人」と思われただろうが、2人はこの宿に決めたらしい。
新たな旅行者とすれ違いで預けておいた荷物を受け取り、大通りから空港行きのバスへと乗りこんだ。
― こうして12日間に渡る我々の旅は終わった。
ソウ兄とは約2週間も始終一緒にいたので、翌朝羽田で別れる時に、そこはかとない寂しさを感じた。
帰国から3日後、彼は既婚者となった。
めでたいし、喜ばしいことだが、一方でもう自分とはこんなに長い期間旅行に行くことは難しいだろうと思うと、やはり寂しくもある。
そして、ネパールを発って2週間が経過した今、ネパールではヒンズー教最大の祭典「ダサイン」の時期を迎えている。(今年は10/12〜26)
ネパールで出会ったあの人たちはどうしているだろうか、と日本での生活に戻った今もしきりに夢想する。
特にラグーに提案されたネパールの子供への学費援助については、今も真剣に考えている。
とにかく、以前も書いたが、未だ未消化なことがらが多く、「ネパールどうだった?」という問いに自分自身明確な答えが見つかっていない。
ということで、長かったこの紀行文は、あえてあとがきなしのまま、ここで終わりにしたいと思う。
遂に迎えた最後日。
今夜、22:00の飛行機で日本に帰国することになる。
朝目覚めると、荷物を整理して帰り支度を整えるが、帰国便は夜なので、まだかなり余裕がある。
実はバンコクでストップ・オーバーできるとわかった時から、「ここだけは行きたい」というところを決めていた。
それは歓楽街として有名なパッポン通りの近くにある有馬温泉というタイ古式マッサージのお店。
※温泉っつっても温泉はない。
ここでトレッキング疲れを解消しようというわけだ。
そこには昼過ぎに行こうという話になったので、遅めの朝食を済ませても、まだ時間があった。
ところで、有馬温泉以外にもう1箇所行こうと思っていた博物館があったのだが、そこは土日は開いていないことを事前に知っていた。
しかし、この際ダメ元でということで、ソウ兄とは別行動で行ってみることにした。
チャオプラヤ川を水上バスで渡り、向こう岸へ。

プラ・ピンガウ橋(Phra Pin Klao Bridge)の上から
結局、その博物館は休みだったのだが、チャオプラヤ川から見るワット・プラケオ(エメラルド寺院)は美しかったし、何より若かりし頃に通った道をなぞる、というよい散歩になった。

遠いけど、エメラルド寺院
結果、帰りの水上バスがなかなか来ず、ソウ兄と約束した時間に大幅に遅れてしまったわけだが。
さて、いざ有馬温泉に行こうとトゥクトゥクを探すのだが、これが意外と難航する。
「パッポンまで」と行き先を告げると、「パッポンのどこに行きたい」と聞くので、ソウ兄「マッサージに行く」と答える。
すると、喜び勇んで違う方のマッサージ屋さんに連れて行こうとするので、「違う、普通のマッサージだ」と言って、腕を揉むジェスチャーをするソウ兄。
しかし、それは火に油を注ぐようなものだ。
「マッサージ」なんて余計な単語を使わなければよかったのだが、どっちにしても「パッポンに行きたい」と言うとそれだけで、「マッサージ?マッサージ?」といらんポン引きをしかけてくるのだ。
「いいからつべこべ言わずにパッポン連れてけよ」
と、折角ネパールで丸くなった心がささくれ立ってくる。
交渉の果てに、黙ってパッポンまで行ってくれそうな1台を見つけ、30分後には目的地に辿り着く。
実は有馬温泉を訪れるのは2度目なので、大体どういうものかは知っている。選ぶコースは迷わず2時間コース。
タイ古式マッサージは、総本山たるワット・ポーを始め、バンコク市内に数多あるが、ちょっと値段は張っても自分はここをお薦めしたい。
1つ気になる点を挙げるとすると、客の多くが日本人なので、マッサージ中に日本語が聞こえてきて集中できない、ということがある。
しかし、いずれにせよ30分もすれば誰もが言葉を発しなくなるのだが。
:
:
:
:
:
そんなわけで、あっという間の至福の2時間を過ごす。
:
:
:
:
そんなわけで、あっという間の至福の2時間を過ごす。
お値段は、400B。
もしバンコクに住んでいたら、きっと毎週通うこと請け合いだ。
プラス、店を出る時に担当の女性にチップを渡すわけだが、これがどうしても有馬温泉に来たかった理由の1つである。
というのも、11年前に訪れた時に、全くルールを知らなかったので、チップを払わなかった。
後で、「ああだから最後に手の平返したようにムスっとしていたのか」、と気づいたが後の祭り。
あの時の悔恨を晴らす意味でも、今回は少し多めにチップを渡した。
※ちなみに、有馬温泉はタニヤ通り(Thaniya road)にも支店があるが、サービスも料金も違う(若干高い)ので注意。
さあ、これで今回予定していた日程は全て消化したことになる。
まだ時間が残っていたので、ルンピニー公園(Lumphini Park)に行って、ぼんやりと、帰ってからのことを考える。

ベンチに座っていると、昔ルンピニー・スタジアムでキックボクシングをやっていた、という青年が話しかけてきたが、なんとなく会話が続かず、もう行こうかということになった。
全旅程を消化し、どっと旅疲れが出たのかもしれない。
シーロム駅(Si Lom)から電車に乗って、フアランポーン駅(Hua Lamphong)に出て、そこからトゥクトゥクでカオサンに戻る。
少しお腹が空いたので、屋台でミーを買って、ゲストハウスで食べる。30Bのご馳走。
食事をしていると、新しく西洋人のカップルがバックパックを背負って入ってきた。
ここに泊まろうか迷っていたので、「きれいだし、いいとこだよ」と本当のことを言ってみた。
よく考えれば、ゲストハウスのエントランスで屋台の麺をすするアジア人、どう見ても「中の人」と思われただろうが、2人はこの宿に決めたらしい。
新たな旅行者とすれ違いで預けておいた荷物を受け取り、大通りから空港行きのバスへと乗りこんだ。
― こうして12日間に渡る我々の旅は終わった。
ソウ兄とは約2週間も始終一緒にいたので、翌朝羽田で別れる時に、そこはかとない寂しさを感じた。
帰国から3日後、彼は既婚者となった。
めでたいし、喜ばしいことだが、一方でもう自分とはこんなに長い期間旅行に行くことは難しいだろうと思うと、やはり寂しくもある。
そして、ネパールを発って2週間が経過した今、ネパールではヒンズー教最大の祭典「ダサイン」の時期を迎えている。(今年は10/12〜26)
ネパールで出会ったあの人たちはどうしているだろうか、と日本での生活に戻った今もしきりに夢想する。
特にラグーに提案されたネパールの子供への学費援助については、今も真剣に考えている。
とにかく、以前も書いたが、未だ未消化なことがらが多く、「ネパールどうだった?」という問いに自分自身明確な答えが見つかっていない。
ということで、長かったこの紀行文は、あえてあとがきなしのまま、ここで終わりにしたいと思う。
2007年10月24日
タイ・バンコク紀行[中編]
10月6日(土)
6:30に起きて、約束の場所に行くが、時間になっても誰も現れない。
7時を10分ほど回ったところで、ツアー会社の人と思われるおばちゃん登場。
ツアーの犠牲者参加者は全部で20人ほど。
日本人は我々を含めて6人。それから双子の中国人姉妹、生真面目そうなイギリス人青年、全身タトゥー入りのアメリカ人女性、カナダ人のカップル、などさまざま。
3台のワゴンに分けられ、約90分かけてアユタヤまで向かう。
バンコクの北80kmの場所に位置する古都アユタヤは、14世紀から18世紀にかけて栄華を誇ったタイ族による王朝である。
しかし、そういう沿革とか魅力についてはどうか別のサイトをご参照願いたい。
本記事の焦点は、いかにこのツアーが「すごかったか」、ということに集約される。
スタッフは3人のドライバーと、「iPood」とプリントされたTシャツを着たガイドのおじさん↓
(以下、Mr.iPoodと呼称)

「呼んだ?」
※スティーヴ・ブシェミにそっくし。
なお、「ガイド」を辞書で調べると、その一項に「外国人の旅行者を通訳を兼ねて案内する人」とあるが、第一の問題としてMr.iPood、ブロークンすぎて英語が理解できない。
最初の地に着いた時、全員を集め、愛用のガイドブックを取り出して説明を始めた。
開始5分は聞き取ろうと努力した。
しかし、「アユタヤ」、「ビルマ」、「エレファント」の3つの単語以外、全く理解できなかった。
諦めて、開放されるのを待つが、Mr.iPood、オーディエンスの当惑具合とは反対に、とにかく話が長い。
:
:
:
ようやく「行ってよし」ということになる。
小学校の遠足を思い出した。

ま、こういうところですよ。
こんな調子で、「乗れー」→「降りろー」→「集まれー」→「よし行けー」→「また乗れー」を繰り返し、何箇所か回る。
ちなみにアユタヤ遺跡は世界文化遺産に登録されているので、今回の旅で訪れる3つ目の世界遺産ということになる。

「世界遺産?俺のことか?」
3つの大きな仏塔で知られるワット・プラ・シー・サンペットというところに移動したのだが、ここでのMr.iPoodの話は輪をかけて長い。
紙芝居のように広げるガイドブックの図と、時々耳に飛び込む単語、そしてかつての記憶によって推察すると、どうやら彼は「アユタヤ王朝がビルマに滅ぼされた」ということを訴えているようだ。
談笑する中国娘3人、自らのガイドブックを読むイギリス人、「長いよ」と目で合図を送るアメリカ人、それでも惰性で相槌だけは打つ日本人、いずれにしても彼の熱弁を完全に理解できる者はいない。
しまいに、突然何かを思い出したようにガサゴソとポッケからライターを取り出したかと思うと、愛本の写真の前で、
カチッ(←着火)
「バーン・・・。」
カチッ(←着火)
「バーン・・・。」
と、戦火を表現する小芝居を始めた。
隣を見るとソウ兄の目がうつろだった。
苦痛の時を過ぎてようやく開放され、まずはファンタで一呼吸置いていたら、無性にMr.iPoodのパフォーマンスがおかしく思えてきた。
「いいですか皆さん、」

「バーン・・・。バーン・・・。」
完全にツボに入って思い出し笑いが止まらなくなると、ソウ兄にも伝染した模様で、兄、ファンタを吹き出す。
笑いをひきずりつつも一通り寺院を回った。

ま、こういうところですよ。

ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピットの中。
大仏の高さは17mだそうですよ。
集合時間になったので戻り、またぞろぞろと移動。
すると、Mr.iPoodに校倉様式に似た建物の中に連れていかれる。
「あれ?昼飯?」と思う。
※このツアーはランチ付き。
しかし、中はがらんと何もなく、再びMr.iPoodの熱弁が始まる。
・・・数分で熱弁と言うか念仏が終わると、「さあ行くぞ」とそこを出る。
「一体ここは何だったんだよ。」
すでに犠牲者参加者には軽い連帯感が生まれていた。
ここで、よせばいいのにソウ兄が参加者の日本人男子に今回の参加費について尋ねると、400Bだったという。
・・・我々は600B払った。
空き地へ行って口笛を吹きたい気分だった。

象乗り場、

涅槃仏と回って、
問題のランチタイムと相成った。
食堂に入り、4人がけのテーブルにつくと、
豚肉のない酢豚、青菜の炒め物、卵焼きの3品がテーブルに並べられた。
この3皿の副菜を4人でシェアしろ、という。
なんだか目がしょぼしょぼしてきた。
― ご飯は食べ放題、というのがむしろ空しい。
ふと窓際のスタッフ・テーブルを見ると違う炒め物の皿なども並んでいる。

「焼き方?ミディアムレアで。」
さすがにハメられたことに全員が気づく。
誰かがボソリと「1人予算50Bってとこか・・・」とつぶやく。
不思議なことに、間抜けなのはこの破壊的クオリティの提供者である主催者側のはずなのだが、見渡すとそれにハマった犠牲者参加者たち(自分を含む)も全員間抜けに見えてくるのだから妙なものだ。
次が最後の訪問地、ワット・マハータート。
アユタヤ最大の見所の1つ、菩提樹の根に埋まる仏頭があることで知られる場所だ。
↓これね。

ここに辿り着く前に、iPood全員集合の号令。
アハハハ、今度は何が始まるんだろうと、思っているとMr.iPood、1枚の看板の前に全員を集める。
そこには、
・仏頭のない仏像に頭を乗せて写真を撮ってはいけません
とか
・壊れた寺院の壁の上に昇ってはいけません
とか
・仏像のある台座に乗ってはいけません
などの
図解入りの注意書きが、
日本語と英語で書いてある。
大事なことだ。
しかし、
見れば10秒でわかる内容をMr.iPood、
身振り手振りを交え、10分かけて熱演。
もはや全員の目がうつろ。
こういうのを、

に説法と言うんだな、と体得。
自由になった直後、近くに日本人観光客に説明するガイドの人がいたので、横で盗み聞きしてみる。
すると、
・この一帯の寺院はクメール人が建立し、仏教建築と思われがちだが、ヒンズー教がベースとなっている。
・仏塔の下には地下室があり、50年ほど前から本格的発掘作業が行われ、数々の至宝が発見された。
・最近は改善されたものの、修復作業は非常にずさんで、遺跡はコンクリートで補修されている。
・仏塔の中も以前は空洞であったが、コウモリやヘビが巣を作るのでやはりコンクリートで塗りこめられてしまった。
など、いちいち膝を打ちたくなるような知識の数々。
Mr.iPood、これが"プロ"と呼ぶのだと思う。

「飲み方?ロックで。」
ソウ兄、もう1人の日本人男性にも参加費を尋ねたらしい。
1,800Bだったそうだ。なんなんだ、このアバウトさ。
とっさに「地団太」という言葉が頭に浮かんだ。
最後に唐突に「船で川下りをしたい人は言ってくれ」と言われる。
そういえば、前回アユタヤに来た時はチャオプラヤ川を下って、バンコクに帰ったっけ。
エクストラチャージがかかるらしいが、この際またワゴンに揺られて黙々と帰るよりはよかろう、と船を選ぶつもりだった。
船着場に着いて、ドライバーに「船でバンコクまで行くにはどれくらいかかるの?」と聞いてみた。
ところが、ドライバーは手をばさばさと振って、Mr.iPoodに聞いてくれ、というサインを送る。
見ていたイギリス人青年が、
「なんだ、このツアースタッフは1人も言葉通じなかったのか」と、つぶやく。
しかも船でバンコクに戻る、というのは勘違いで、この辺の運河を1時間ほど巡って、結局ここからワゴンで帰る、ということだった。
・・・なんの意味もないので、早く帰る方を選ぶ。
ここまで来ると、参加者いや犠牲者たちから悟りを開いたように自然なアルカイック・スマイルがこぼれだす。
こうして、さらに90分ワゴンに揺られてバンコクに戻るのであった。
本当は書ききれないエピソードもまだまだあるのだが、この辺で勘弁しておこう。
なお、唯一このツアーで評価するところがあるとすれば、予定より1時間早く解散になったことだ。
カオサンに戻り一休みしてから、夕方に「タイスキを食べに行こう」という話になり、トゥク・トゥクを捕まえて中華街へ。
結構大き目のタイスキ屋に入って、好きなだけ注文する。
会話の中心はやはりアユタヤ珍遊記のこと。
トラウマ必至のツアーだったが、これだけ話のネタになっただけでも十分元は取れたような気がした。
もうこういう団体ツアーに参加するのはこりごりだけど。
こうして、今回の旅を締めくくる最後の夜は更けていった。
6:30に起きて、約束の場所に行くが、時間になっても誰も現れない。
7時を10分ほど回ったところで、ツアー会社の人と思われるおばちゃん登場。
ツアーの
日本人は我々を含めて6人。それから双子の中国人姉妹、生真面目そうなイギリス人青年、全身タトゥー入りのアメリカ人女性、カナダ人のカップル、などさまざま。
3台のワゴンに分けられ、約90分かけてアユタヤまで向かう。
バンコクの北80kmの場所に位置する古都アユタヤは、14世紀から18世紀にかけて栄華を誇ったタイ族による王朝である。
しかし、そういう沿革とか魅力についてはどうか別のサイトをご参照願いたい。
本記事の焦点は、いかにこのツアーが「すごかったか」、ということに集約される。
スタッフは3人のドライバーと、「iPood」とプリントされたTシャツを着たガイドのおじさん↓
(以下、Mr.iPoodと呼称)

「呼んだ?」
※スティーヴ・ブシェミにそっくし。
なお、「ガイド」を辞書で調べると、その一項に「外国人の旅行者を通訳を兼ねて案内する人」とあるが、第一の問題としてMr.iPood、ブロークンすぎて英語が理解できない。
最初の地に着いた時、全員を集め、愛用のガイドブックを取り出して説明を始めた。
開始5分は聞き取ろうと努力した。
しかし、「アユタヤ」、「ビルマ」、「エレファント」の3つの単語以外、全く理解できなかった。
諦めて、開放されるのを待つが、Mr.iPood、オーディエンスの当惑具合とは反対に、とにかく話が長い。
:
:
:
ようやく「行ってよし」ということになる。
小学校の遠足を思い出した。

ま、こういうところですよ。
こんな調子で、「乗れー」→「降りろー」→「集まれー」→「よし行けー」→「また乗れー」を繰り返し、何箇所か回る。
ちなみにアユタヤ遺跡は世界文化遺産に登録されているので、今回の旅で訪れる3つ目の世界遺産ということになる。

「世界遺産?俺のことか?」
3つの大きな仏塔で知られるワット・プラ・シー・サンペットというところに移動したのだが、ここでのMr.iPoodの話は輪をかけて長い。
紙芝居のように広げるガイドブックの図と、時々耳に飛び込む単語、そしてかつての記憶によって推察すると、どうやら彼は「アユタヤ王朝がビルマに滅ぼされた」ということを訴えているようだ。
談笑する中国娘3人、自らのガイドブックを読むイギリス人、「長いよ」と目で合図を送るアメリカ人、それでも惰性で相槌だけは打つ日本人、いずれにしても彼の熱弁を完全に理解できる者はいない。
しまいに、突然何かを思い出したようにガサゴソとポッケからライターを取り出したかと思うと、愛本の写真の前で、
カチッ(←着火)
「バーン・・・。」
カチッ(←着火)
「バーン・・・。」
と、戦火を表現する小芝居を始めた。
隣を見るとソウ兄の目がうつろだった。
苦痛の時を過ぎてようやく開放され、まずはファンタで一呼吸置いていたら、無性にMr.iPoodのパフォーマンスがおかしく思えてきた。
「いいですか皆さん、」

「バーン・・・。バーン・・・。」
完全にツボに入って思い出し笑いが止まらなくなると、ソウ兄にも伝染した模様で、兄、ファンタを吹き出す。
笑いをひきずりつつも一通り寺院を回った。

ま、こういうところですよ。

ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピットの中。
大仏の高さは17mだそうですよ。
集合時間になったので戻り、またぞろぞろと移動。
すると、Mr.iPoodに校倉様式に似た建物の中に連れていかれる。
「あれ?昼飯?」と思う。
※このツアーはランチ付き。
しかし、中はがらんと何もなく、再びMr.iPoodの熱弁が始まる。
・・・数分で熱弁と言うか念仏が終わると、「さあ行くぞ」とそこを出る。
「一体ここは何だったんだよ。」
すでに
ここで、よせばいいのにソウ兄が参加者の日本人男子に今回の参加費について尋ねると、400Bだったという。
・・・我々は600B払った。
空き地へ行って口笛を吹きたい気分だった。

象乗り場、

涅槃仏と回って、
問題のランチタイムと相成った。
食堂に入り、4人がけのテーブルにつくと、
豚肉のない酢豚、青菜の炒め物、卵焼きの3品がテーブルに並べられた。
この3皿の副菜を4人でシェアしろ、という。
なんだか目がしょぼしょぼしてきた。
― ご飯は食べ放題、というのがむしろ空しい。
ふと窓際のスタッフ・テーブルを見ると違う炒め物の皿なども並んでいる。

「焼き方?ミディアムレアで。」
さすがにハメられたことに全員が気づく。
誰かがボソリと「1人予算50Bってとこか・・・」とつぶやく。
不思議なことに、間抜けなのはこの破壊的クオリティの提供者である主催者側のはずなのだが、見渡すとそれにハマった
次が最後の訪問地、ワット・マハータート。
アユタヤ最大の見所の1つ、菩提樹の根に埋まる仏頭があることで知られる場所だ。
↓これね。

ここに辿り着く前に、iPood全員集合の号令。
アハハハ、今度は何が始まるんだろうと、思っているとMr.iPood、1枚の看板の前に全員を集める。
そこには、
・仏頭のない仏像に頭を乗せて写真を撮ってはいけません
とか
・壊れた寺院の壁の上に昇ってはいけません
とか
・仏像のある台座に乗ってはいけません
などの
図解入りの注意書きが、
日本語と英語で書いてある。
大事なことだ。
しかし、
見れば10秒でわかる内容をMr.iPood、
身振り手振りを交え、10分かけて熱演。
もはや全員の目がうつろ。
こういうのを、

に説法と言うんだな、と体得。
自由になった直後、近くに日本人観光客に説明するガイドの人がいたので、横で盗み聞きしてみる。
すると、
・この一帯の寺院はクメール人が建立し、仏教建築と思われがちだが、ヒンズー教がベースとなっている。
・仏塔の下には地下室があり、50年ほど前から本格的発掘作業が行われ、数々の至宝が発見された。
・最近は改善されたものの、修復作業は非常にずさんで、遺跡はコンクリートで補修されている。
・仏塔の中も以前は空洞であったが、コウモリやヘビが巣を作るのでやはりコンクリートで塗りこめられてしまった。
など、いちいち膝を打ちたくなるような知識の数々。
Mr.iPood、これが"プロ"と呼ぶのだと思う。

「飲み方?ロックで。」
ソウ兄、もう1人の日本人男性にも参加費を尋ねたらしい。
1,800Bだったそうだ。なんなんだ、このアバウトさ。
とっさに「地団太」という言葉が頭に浮かんだ。
最後に唐突に「船で川下りをしたい人は言ってくれ」と言われる。
そういえば、前回アユタヤに来た時はチャオプラヤ川を下って、バンコクに帰ったっけ。
エクストラチャージがかかるらしいが、この際またワゴンに揺られて黙々と帰るよりはよかろう、と船を選ぶつもりだった。
船着場に着いて、ドライバーに「船でバンコクまで行くにはどれくらいかかるの?」と聞いてみた。
ところが、ドライバーは手をばさばさと振って、Mr.iPoodに聞いてくれ、というサインを送る。
見ていたイギリス人青年が、
「なんだ、このツアースタッフは1人も言葉通じなかったのか」と、つぶやく。
しかも船でバンコクに戻る、というのは勘違いで、この辺の運河を1時間ほど巡って、結局ここからワゴンで帰る、ということだった。
・・・なんの意味もないので、早く帰る方を選ぶ。
ここまで来ると、参加者いや犠牲者たちから悟りを開いたように自然なアルカイック・スマイルがこぼれだす。
こうして、さらに90分ワゴンに揺られてバンコクに戻るのであった。
本当は書ききれないエピソードもまだまだあるのだが、この辺で勘弁しておこう。
なお、唯一このツアーで評価するところがあるとすれば、予定より1時間早く解散になったことだ。
カオサンに戻り一休みしてから、夕方に「タイスキを食べに行こう」という話になり、トゥク・トゥクを捕まえて中華街へ。
結構大き目のタイスキ屋に入って、好きなだけ注文する。
会話の中心はやはりアユタヤ珍遊記のこと。
トラウマ必至のツアーだったが、これだけ話のネタになっただけでも十分元は取れたような気がした。
もうこういう団体ツアーに参加するのはこりごりだけど。
こうして、今回の旅を締めくくる最後の夜は更けていった。
2007年10月23日
タイ・バンコク紀行[前編]
10月5日(金)
カトマンズから飛ぶこと4時間、"天使の都"バンコクに着陸した。
タイ時間で20:30、ネパールとの時差1時間15分だけ時計を進める。
バンコクを訪れるのは実に11年振りになる。
・・・とはいえ、行きの飛行機もバンコクを経由しているため、トランジットのために空港には5時間以上滞在した。
その時も思ったが、以前来た時より明らかに空港が新しい。
以前は旧国際空港、ドンムアンを利用したのだが、今回は丁度1年前に開港したばかりのスワンナプーム国際空港(Suvarnabhumi International Airport)に降り立ったわけだ。
覚えにくい名前の空港だ。
覚えにくいのは名前だけではない。
広すぎて道が全く覚えられない。
帰国便に乗る前には、行きの時に横になって休んだソファの場所がどうしても見つからなかった。

まるで「浮遊機械都市ボーグ」のよう。(←マニアック過ぎ)
と、まあ空港は未来世紀ブラジルなわけだが、さすがに気候は変わらない。ロビーから外に出た瞬間にねっとりとした湿気が、ザラメのように体にまとわりつく。
バックパッカーのメッカ、カオサン通り(Khaosan road)行きのバスに乗り込むと、周りは「いかにも」な西洋人たち。
さて、空港からカオサンまではざっと1時間以上かかったのだが、まず驚いたのが、街まで続く道路から見える風景は10年前とは大違いなこと。
10年前、まず驚かされたのが、野象とおぼしき象たちが空港から街まで辿り着く間に点々といたり、とにかく異国に来たのだ、という実感があった。
ところが、今回目立つのは赤地に黄色いアーチの看板や、カーネルのおじさん。
真剣に「ここはL.A.か?」と思った。
アメリカと日本、そして破竹の勢いの韓国資本が随分と流入してきているなあ、というのが今回の第一印象。
カオサンに着いたのが、22:18。
カオサンは外国人旅行者が集まる場所なので、ネオンギラギラ、騒音ガンガンでとにかく四六時中騒がしい。

ここもなんか印象変わったなあ、と思う間もなく、まずは今夜の宿を探さなくてはならない。
3軒回って、ツイン1泊300バーツ(以下Bで表記)のゲストハウスに決める。
※1バーツ=3.6円。3倍で計算するといいかも。
ファン付き、エアコンなしの部屋だが、熱帯では案外エアコンよりファンの方がすごしやすい。
大通りから20mほど脇にそれるので、少しはうるさくないかな、というのもある。
1人約500円と考えると、安いは安いが、やっぱりタメルと比べると高い。
食事のために、カオサンに出る。
目と耳を覆わんばかりの装飾と騒音はタメルも同じだが、カオサンのそれがライヴハウスだとすると、タメルのそれはチンドン屋だ。より自分好みなのは後者。
レストランでトムヤムクン定食とビールを頼む。
6年前にやはりバンコクを訪れているソウ兄と、「相当物価上がったよね」という話をする。
カオサンをぐるりと1周して、ネパールでは1軒もお目にかからなかったコンビニに入り、水を買う。
帰りしな、通りがかりの屋台のミー(麺)が妙にうまそうだったので、立ち寄る。
勘は当たって、30B也のそのミーはヒットだった。

卵麺がオススメです。
さて、これで宿に戻るわけだが、「次の日にアユタヤに行かないか」、というのがソウ兄の提案だった。
行ったことはあったが、まあきれいなところだったので、「じゃ行きますか」という話になっていた。
が、例によってガイドブックの類は一切持っていないのでどうやって行けばよいのかわからない。
時間を遡ると、カオサンに着いて間もなくツアー会社があったので、そこでアユタヤへの行き方について聞いたところ、500Bで半日ツアーがあって、明日も早朝に出発するという。
その時は躊躇して、まあいいやという話になり、距離的には車で2時間くらいのものなので、自分たちでバスでも見つけるか、ということで落ち着いていた。
ところが、部屋に戻って読書をしていると、ソウ兄が向かいのゲストハウスでアユタヤツアーの申し込みができるという話を仕入れてきた。
向かいの宿の小太り兄ちゃんによれば、本当かウソか自分たちでバスを探して、というのは不可能だと言う。(←まあウソだったんだけど)
じゃあツアーならいくらだ?と聞くと650Bだという。
さっきカオサンで500Bだったんだけど、と言うと「ありえない」と言う。(←まあありえたんだけど)
とにかく時間は既に0時を回っており、もしもこのボタモチの言うことが正しければ、今決断しないとアユタヤには行けない。
結局、交渉で600Bに落として、ツアーに申し込む。
7時に宿の前に集合だと言うので、戻ってさっさと寝支度を始めた。
しかし、この時我々は誤った決断をしていたこと、次の日のツアーがいかに珍遊記であるかをまだ知らない。
その時点ではかわいそうに、そんなこととは露知らず、いっそ鳴らなければよかった目覚ましをセットして、すやすやと眠りに就くのであった。
カトマンズから飛ぶこと4時間、"天使の都"バンコクに着陸した。
タイ時間で20:30、ネパールとの時差1時間15分だけ時計を進める。
バンコクを訪れるのは実に11年振りになる。
・・・とはいえ、行きの飛行機もバンコクを経由しているため、トランジットのために空港には5時間以上滞在した。
その時も思ったが、以前来た時より明らかに空港が新しい。
以前は旧国際空港、ドンムアンを利用したのだが、今回は丁度1年前に開港したばかりのスワンナプーム国際空港(Suvarnabhumi International Airport)に降り立ったわけだ。
覚えにくい名前の空港だ。
覚えにくいのは名前だけではない。
広すぎて道が全く覚えられない。
帰国便に乗る前には、行きの時に横になって休んだソファの場所がどうしても見つからなかった。

まるで「浮遊機械都市ボーグ」のよう。(←マニアック過ぎ)
と、まあ空港は未来世紀ブラジルなわけだが、さすがに気候は変わらない。ロビーから外に出た瞬間にねっとりとした湿気が、ザラメのように体にまとわりつく。
バックパッカーのメッカ、カオサン通り(Khaosan road)行きのバスに乗り込むと、周りは「いかにも」な西洋人たち。
さて、空港からカオサンまではざっと1時間以上かかったのだが、まず驚いたのが、街まで続く道路から見える風景は10年前とは大違いなこと。
10年前、まず驚かされたのが、野象とおぼしき象たちが空港から街まで辿り着く間に点々といたり、とにかく異国に来たのだ、という実感があった。
ところが、今回目立つのは赤地に黄色いアーチの看板や、カーネルのおじさん。
真剣に「ここはL.A.か?」と思った。
アメリカと日本、そして破竹の勢いの韓国資本が随分と流入してきているなあ、というのが今回の第一印象。
カオサンに着いたのが、22:18。
カオサンは外国人旅行者が集まる場所なので、ネオンギラギラ、騒音ガンガンでとにかく四六時中騒がしい。

ここもなんか印象変わったなあ、と思う間もなく、まずは今夜の宿を探さなくてはならない。
3軒回って、ツイン1泊300バーツ(以下Bで表記)のゲストハウスに決める。
※1バーツ=3.6円。3倍で計算するといいかも。
ファン付き、エアコンなしの部屋だが、熱帯では案外エアコンよりファンの方がすごしやすい。
大通りから20mほど脇にそれるので、少しはうるさくないかな、というのもある。
1人約500円と考えると、安いは安いが、やっぱりタメルと比べると高い。
食事のために、カオサンに出る。
目と耳を覆わんばかりの装飾と騒音はタメルも同じだが、カオサンのそれがライヴハウスだとすると、タメルのそれはチンドン屋だ。より自分好みなのは後者。
レストランでトムヤムクン定食とビールを頼む。
6年前にやはりバンコクを訪れているソウ兄と、「相当物価上がったよね」という話をする。
カオサンをぐるりと1周して、ネパールでは1軒もお目にかからなかったコンビニに入り、水を買う。
帰りしな、通りがかりの屋台のミー(麺)が妙にうまそうだったので、立ち寄る。
勘は当たって、30B也のそのミーはヒットだった。

卵麺がオススメです。
さて、これで宿に戻るわけだが、「次の日にアユタヤに行かないか」、というのがソウ兄の提案だった。
行ったことはあったが、まあきれいなところだったので、「じゃ行きますか」という話になっていた。
が、例によってガイドブックの類は一切持っていないのでどうやって行けばよいのかわからない。
時間を遡ると、カオサンに着いて間もなくツアー会社があったので、そこでアユタヤへの行き方について聞いたところ、500Bで半日ツアーがあって、明日も早朝に出発するという。
その時は躊躇して、まあいいやという話になり、距離的には車で2時間くらいのものなので、自分たちでバスでも見つけるか、ということで落ち着いていた。
ところが、部屋に戻って読書をしていると、ソウ兄が向かいのゲストハウスでアユタヤツアーの申し込みができるという話を仕入れてきた。
向かいの宿の小太り兄ちゃんによれば、本当かウソか自分たちでバスを探して、というのは不可能だと言う。(←まあウソだったんだけど)
じゃあツアーならいくらだ?と聞くと650Bだという。
さっきカオサンで500Bだったんだけど、と言うと「ありえない」と言う。(←まあありえたんだけど)
とにかく時間は既に0時を回っており、もしもこのボタモチの言うことが正しければ、今決断しないとアユタヤには行けない。
結局、交渉で600Bに落として、ツアーに申し込む。
7時に宿の前に集合だと言うので、戻ってさっさと寝支度を始めた。
しかし、この時我々は誤った決断をしていたこと、次の日のツアーがいかに珍遊記であるかをまだ知らない。
その時点ではかわいそうに、そんなこととは露知らず、いっそ鳴らなければよかった目覚ましをセットして、すやすやと眠りに就くのであった。
2007年10月22日
NAMASTE.TV Vol.6 [最終回]
遂にきました最終回。
毎度バカバカしいアレで、すんませんした。
と、最終回のくせに地味です。
なんなら涙の一つも吹いときゃよかったんですけどね。
なんかね、面倒臭くなっちゃったみたいですよ。このオジサン。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
毎度バカバカしいアレで、すんませんした。
と、最終回のくせに地味です。
なんなら涙の一つも吹いときゃよかったんですけどね。
なんかね、面倒臭くなっちゃったみたいですよ。このオジサン。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
ネパール・ヒマラヤ紀行[申の巻]
10月5日(金)
7:00起床。
いよいよ今日の13時のフライトでカトマンズを後にする。
朝食がてら街に出て、最後のカトマンズ散策としゃれこむ。

早いので開いていない店も多い。
朝食を済ませ、店もちらほらと開き始めたので、ソウ兄と別れて、本屋を眺めたり、お土産を買ったり、余ったネパールルピーを消費する。もういたずらに値段交渉はしない。
部屋に戻り、パッキング。
自分流の儀式として、今まで伸ばしっ放しだったヒゲを剃る。

と言っても、あまり伸びなかったけど・・・。
ソウ兄が「屋上にウサギがいるよ」というので、見に行き、コニチハと同時にサヨナラする。

「ママ、いた!隠れてた!」(ドーラの息子)
11:00。宿をチェックアウト。
事前にRs.250で空港まで、というディールをしていたタクシーの運転手がタメルの入口で待っていた。来ないかもしれないと思ったのだろう。我々を見つけると、ほっとした表情を見せる。
さて、ソウ兄は国内外問わず、タクシーの運転手と話すのが好きだ。
それがいかんなくここでも発揮される。
自分は後部座席で車窓にもたれながら、ぼんやりと彼の語る身の上話を聞いていた。
彼は現在40歳。25歳の時に結婚し、現在子供は3人いる。
奥さんは今30歳だそうなので、逆算すると15歳の時に結婚したことになる。
一時は会社を経営していたこともあった。しかし、うまくいかなかった。
ネパールでは車の価格がべらぼうに高いので、([午の巻]パサンの話、参照)個人タクシーを持つのは無理で、毎日売上の中から雇い主に固定費を払っている。
子供は上から14歳、12歳、4歳とまだまだ手のかかる時期で、特に教育にはお金がかかる。([未の巻]ラグーの話、参照)
ガソリン不足はやはり困った問題。
給油のために半日以上待つこともあるので、商売にならない。
日中お客を取るために、ガソリンが減ってくると早起きをして給油に行く。
「土曜?日曜?いや、休みなんかないさ。
働いて家族を養わなければならないんだから。」
一言で言えば愚痴だった。
困窮した口ぶりでとつとつと語る裏には「だからチップは弾んでよ」という思惑も見え隠れしていた。
しかし、彼の言うことはひたすらにリアルで、それはこの10日間で見てきたネパールの現状を端的に言葉に置き換えたものだった。
同情しそうになった。
しかし、「かわいそうだね」と思うのもひどく失礼に思えた。
ネパールには観光以外、これといった産業がない。
中国、インド ― イキのいい2つのBRICs諸国に挟まれたこの国は、そびえるヒマラヤ山脈とは正反対に経済の谷間として、ひっそりと息づいている。
かように、この場でネパールの政府がどうだ、とか経済浮揚にはどうだ、とか語るのは余りにもナンセンスだが、市井の人々のこういった必死さは眼前で展開されているのだ。
何か思わざるをえない。
生きて、呼吸するために、そして背中に背負った家族のために、「マネー、マネー」と言う彼に「同情」ではなく、話を聞いた「お礼」として、約束のRs.250に残っていた小額紙幣を全部上乗せし、タクシーを降りた。
空港使用料は現地通貨を使い果たしたので、ドルで支払う。($28)
搭乗手続きを済ませ、バンコク行きのチケットを受け取る。
手荷物検査を受け、中に入るが、フライトまではまだ十分に時間がある。
本を読んで過ごした。
ちなみに、この時読んでいたのは村上春樹氏の「約束された場所で」。
※地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」の続編。
読書をしていると、"Excuse me"と声をかけられる。
顔を上げるとどこかで見覚えのある顔。
トレッキング中に雨の中出会ったコリアンのKelliだった。([丑の巻]参照)
彼女も同じ飛行機でバンコクに飛び、そこからソウルに帰るらしい。
出会った時は山焼けも残り、雨のためお互い濡れ鼠だったので、一瞬誰か判断がつかなかった。
お互いにその後のネパールでの思い出を語り、名刺交換をした。
搭乗時間に遅れが出ているようだったが、最後に訪れた嬉しい偶然のため、全く気にならなかった。

お世話になりました
いよいよ離陸の時間となって、カトマンズがじわじわと小さくなり、雲の下へと消えていった。
ふと、再びここを訪れることがあるのだろうか?と考える。
そう考えると「そうか、あの時タメルのあの店に行ったのは最初で最後になるのか」、とか「ナムチェの宿の娘さんには高い確率でもう2度と会わないんだなあ」とかそんな感傷モードになる。
「エベレストを見る」という目的は達成した、
腹は下したものの怪我なく登山ができた、
いくつもの貴重な出会いがあった、
どれをとっても、申し分のない10日間だったと思う。
しかし、十分すぎたゆえに消化不良の部分もある。
特に「貧困」というネパールの抱える問題について考えることはどうしても多い。
それはどう自分の中で消化できるかわからない。
かなり時間がかかることのようにも思う。
何しろ自分にどうにかできる話ではないから。
時間をかけてゆっくりと咀嚼して、それでも消化しきれなかったらまた来ればいい、
そういう風に曖昧に結論づけることにした。
― 以上で、ネパール・ヒマラヤ紀行はおしまいです。
毎回このような長文をお読みいただいた方々、誠にありがとうございました。
これでおしまい、
なんですが、ネパールを発ってから何日かをタイのバンコクで過ごしました。ですので、番外編としてちゃちゃっとタイ・バンコク紀行をしたためたいと思います。
7:00起床。
いよいよ今日の13時のフライトでカトマンズを後にする。
朝食がてら街に出て、最後のカトマンズ散策としゃれこむ。

早いので開いていない店も多い。
朝食を済ませ、店もちらほらと開き始めたので、ソウ兄と別れて、本屋を眺めたり、お土産を買ったり、余ったネパールルピーを消費する。もういたずらに値段交渉はしない。
部屋に戻り、パッキング。
自分流の儀式として、今まで伸ばしっ放しだったヒゲを剃る。

と言っても、あまり伸びなかったけど・・・。
ソウ兄が「屋上にウサギがいるよ」というので、見に行き、コニチハと同時にサヨナラする。

「ママ、いた!隠れてた!」(ドーラの息子)
11:00。宿をチェックアウト。
事前にRs.250で空港まで、というディールをしていたタクシーの運転手がタメルの入口で待っていた。来ないかもしれないと思ったのだろう。我々を見つけると、ほっとした表情を見せる。
さて、ソウ兄は国内外問わず、タクシーの運転手と話すのが好きだ。
それがいかんなくここでも発揮される。
自分は後部座席で車窓にもたれながら、ぼんやりと彼の語る身の上話を聞いていた。
彼は現在40歳。25歳の時に結婚し、現在子供は3人いる。
奥さんは今30歳だそうなので、逆算すると15歳の時に結婚したことになる。
一時は会社を経営していたこともあった。しかし、うまくいかなかった。
ネパールでは車の価格がべらぼうに高いので、([午の巻]パサンの話、参照)個人タクシーを持つのは無理で、毎日売上の中から雇い主に固定費を払っている。
子供は上から14歳、12歳、4歳とまだまだ手のかかる時期で、特に教育にはお金がかかる。([未の巻]ラグーの話、参照)
ガソリン不足はやはり困った問題。
給油のために半日以上待つこともあるので、商売にならない。
日中お客を取るために、ガソリンが減ってくると早起きをして給油に行く。
「土曜?日曜?いや、休みなんかないさ。
働いて家族を養わなければならないんだから。」
一言で言えば愚痴だった。
困窮した口ぶりでとつとつと語る裏には「だからチップは弾んでよ」という思惑も見え隠れしていた。
しかし、彼の言うことはひたすらにリアルで、それはこの10日間で見てきたネパールの現状を端的に言葉に置き換えたものだった。
同情しそうになった。
しかし、「かわいそうだね」と思うのもひどく失礼に思えた。
ネパールには観光以外、これといった産業がない。
中国、インド ― イキのいい2つのBRICs諸国に挟まれたこの国は、そびえるヒマラヤ山脈とは正反対に経済の谷間として、ひっそりと息づいている。
かように、この場でネパールの政府がどうだ、とか経済浮揚にはどうだ、とか語るのは余りにもナンセンスだが、市井の人々のこういった必死さは眼前で展開されているのだ。
何か思わざるをえない。
生きて、呼吸するために、そして背中に背負った家族のために、「マネー、マネー」と言う彼に「同情」ではなく、話を聞いた「お礼」として、約束のRs.250に残っていた小額紙幣を全部上乗せし、タクシーを降りた。
空港使用料は現地通貨を使い果たしたので、ドルで支払う。($28)
搭乗手続きを済ませ、バンコク行きのチケットを受け取る。
手荷物検査を受け、中に入るが、フライトまではまだ十分に時間がある。
本を読んで過ごした。
ちなみに、この時読んでいたのは村上春樹氏の「約束された場所で」。
※地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」の続編。
読書をしていると、"Excuse me"と声をかけられる。
顔を上げるとどこかで見覚えのある顔。
トレッキング中に雨の中出会ったコリアンのKelliだった。([丑の巻]参照)
彼女も同じ飛行機でバンコクに飛び、そこからソウルに帰るらしい。
出会った時は山焼けも残り、雨のためお互い濡れ鼠だったので、一瞬誰か判断がつかなかった。
お互いにその後のネパールでの思い出を語り、名刺交換をした。
搭乗時間に遅れが出ているようだったが、最後に訪れた嬉しい偶然のため、全く気にならなかった。

お世話になりました
いよいよ離陸の時間となって、カトマンズがじわじわと小さくなり、雲の下へと消えていった。
ふと、再びここを訪れることがあるのだろうか?と考える。
そう考えると「そうか、あの時タメルのあの店に行ったのは最初で最後になるのか」、とか「ナムチェの宿の娘さんには高い確率でもう2度と会わないんだなあ」とかそんな感傷モードになる。
「エベレストを見る」という目的は達成した、
腹は下したものの怪我なく登山ができた、
いくつもの貴重な出会いがあった、
どれをとっても、申し分のない10日間だったと思う。
しかし、十分すぎたゆえに消化不良の部分もある。
特に「貧困」というネパールの抱える問題について考えることはどうしても多い。
それはどう自分の中で消化できるかわからない。
かなり時間がかかることのようにも思う。
何しろ自分にどうにかできる話ではないから。
時間をかけてゆっくりと咀嚼して、それでも消化しきれなかったらまた来ればいい、
そういう風に曖昧に結論づけることにした。
― 以上で、ネパール・ヒマラヤ紀行はおしまいです。
毎回このような長文をお読みいただいた方々、誠にありがとうございました。
これでおしまい、
なんですが、ネパールを発ってから何日かをタイのバンコクで過ごしました。ですので、番外編としてちゃちゃっとタイ・バンコク紀行をしたためたいと思います。
2007年10月21日
ネパール・ヒマラヤ紀行[未の巻]
10月4日(木)
8:30起床。今日もカトマンズは晴れ。
宿を出て、まずは初日にお世話になったヒマラヤン・アクティビティーズに行って、今日訪れるパタン(Patan)への行き方などを聞いてみようということになった。
事務所に着くと、経営者のラグー(Raghu)が笑顔で迎えてくれた。パタンに行くバス停の場所、明日の出国のこと、食堂の場所などを尋ねる。
わかりやすく説明してもらった後に、「今夜メシでもどう?」と誘われる。
別段何をするとも決めていなかったので快諾し、18時ごろ再びここを訪れることを約束する。
まだ朝早いので多くの店はやっていないが、近くのコンチネンタルレストランが空いていたので、そこで朝食を取る。
初めてピザを食べてみたが、悪くなかった。
さて、本日訪れるパタンとは、カトマンズの南に位置する仏教建築や工芸品で有名ないわば古都である。
バス停があるというラトナ・パーク(Ratna Park)まで行って、パタン行きのバスを探す。ところが、どれがどこにいくバスなのか皆目見当がつかない。
何人かに尋ねて回るが、その都度答えは違う。

「日本人ですか?」と日本語で話しかけてきた青年がいて、「どこに行きたいのですか?」と聞かれ、「パタンです」と答えると、バス停の場所と「14番のバスに乗って、10分くらいです」と教えてくれた。お礼を述べると、何を求めるでもなく、そそくさと行ってしまった。
やっと見つけたパタン行きのバスは、バスではなかった。
ハイエース級のワゴンで、そこにスシ詰めにして、移動するのだ。数えると定員10名のワゴンに18名+運転手+車掌で計20名。運賃はRs.10。
腕も上げられない状態で10分ほど揺られ、パタン西側のPATAN GATE近くで降りる。

ところで、我々は今回「地球の歩き方」的なガイドブックを一切持っていっていない。荷物になるし、ガイドブックを頼りにしてしまうと、そこにある情報に縛られてしまうから、ということで意見が一致している。
今回も「前もパタンに来た」というソウ兄の記憶と、事前にWEBで散見した情報、そしてラグーにもらったカトマンズ近郊の地図だけが全てのソースである。
パタンは古都というだけあって、カトマンズほどうるさくはない。街に足を踏み入れると、目の覚めるような見事な仏教寺院、ヒンズー教寺院が建ち並んでいる。
↑こういう感動も事前にガイドブックで、"よく撮れた写真"を見ていると、良かれ悪しかれ大分印象が違うものだ。

ダルバール広場
パタンの中心であるパタン・ダルバール・スクウェア(PATAN DURBAR SQUARE)に行くと、呼び止められ、拝観料的なお金を取られる。
Rs.200と随分高い。
もしかして払わずにも済んだのかもしれないが、お陰でパタンについてのリーフレットと地図をもらったので、よしとする。
それによると見所は、12世紀にバスカル・バルマ王(King Bhaskar Verma)によって、建立されたというヒラーニャ・ヴァルナ・マハヴィール寺院(Hiranya Varna Mahavihar)、別名ゴールデン・テンプル、仏教の庇護者として名高いアショカ王(King Ashoka)が造ったと言われ、街の東西南北に位置する4つのストゥーパ、などなど。
それにしても今日は暑いわけだが、
パタンだけに

犬もパタン。(生きてます)
これがほんとのワンパターン。
手始めにゴールデン・テンプルから行ってみる。
この寺院、なぜゴールデンかというと、ご本尊の仏像や寺院の壁が、金色だから。

リーフレットによると、ブッダの出生から入滅までを綴った絵があると書いてあったのだが、行ってみたらそこには入ることができなかった。なんだよ。
途中、ネパール茶を売っているお茶屋を見つけ、入ってみる。
ソウ兄は6年前もこの店を訪れたそうだ。さすがに店主は覚えていない様子だったが。
親切なご主人で、試したいと言うと、時間をかけてイラム・ティとマサラ・ティを淹れてくれた。
気に入ったお茶をお土産用に何種類かまとめて買うと、頼んでいないのにディスカウントしてくれた。

パタン・ダルバール・スクウェア近くのお茶屋さんです。
続いてクンベシュワール寺院(Kumbheshwor)の五重の塔をかすめて、

アショカ王が紀元前250年、つまり2,200年以上前に建てたという4つのストゥーパのうち北にあるそれを目指す。
散々迷った末に辿り着いたそこに、歴史の重みは残念ながら、微塵も感じられず、むしろ生活臭が漂う民家の間にあった。
当然のごとく建て替えられたのであろうストゥーパはコンクリートで塗り固められていた。
ここに時空を超えた大昔、アショカ王が訪れたのだ、というイマジネーションだけが頼りだった。

広場に戻り、お茶休憩。

鴨の行列眺めつつ
[子の巻]でも書いたことだが、それにしてもネパールには美女そして美男が多い。あくまで日本人的感覚でしかないが、コーカソイド特有の彫りの深さと、モンゴロイドのキレのある顔立ちが見事なバランスで融合しているとでもいうか。

すんません。隠し撮りしました。
さて、帰りは西のアショカ・ストゥーパを眺めて帰ろうということで、西側のゲートに向かう。

バス停に向かう途中、お馴染み給油行列と出くわす。([丑の巻]参照)

ずらーっとゆうに1kmは続いている。
重ねて言いたい。
インド洋での給油活動で揉めている日本政府の皆さん、
どうかネパールに給油してあげてください。
一度宿に戻ってから、17:30頃、ヒマラヤン・アクティビティーズのオフィスに行って、ラグーと合流する。
タメルから10分ほど歩いてラグーが知っているというオープンエアのレストランに行く。
彼と3人で共有した時間は、前日のシェルパ族、パサンさん宅で経験したそれとは趣きは違うが、いずれにしても2夜連続で現地の人と過ごす貴重な体験であった。
彼はさすが客商売をやっているだけあって、きれいな英語を話す上、聞き上手で会話していて楽しい相手だった。
ラグーはすでに妻帯し、子供も1人いるそうだが、その奥さんとの出会いの話が面白い。
要は見合い結婚だったらしいのだが、披露宴を終え、迎えた初夜に彼が妻に対して初めて発した一言は、
"So, what's your name?"
だったそうだ。
聞けば、ラグーとソウ兄は同い年らしいのだが、ツアー会社を立ち上げ、ビジネスを軌道に乗せるまでは並々ならぬ苦労があったようだ。
ぶっちゃけトークということで不躾ながら聞いたのは、彼の経営するヒマラヤン・アクティビティーズに我々はカトマンズ ― ルクラの国内線を手配してもらったわけだが、果たしてその何%が彼らの利益になるのか?ということ。
その答えは3%。
我々が払ったのはUSドルで$200ずつだったので、つまり1人$6ずつということになる。
たったの$6だ。
普通はガイドやポーターをつけることで収入になるのだが、「そういうのいいです」と雇わなかったので、その3%のマージンだけが、彼らに支払った対価ということになる。
・・・その割には、余りあるほどよくしてもらった。
皆さん、カトマンズを訪れた際は
まごころのヒマラヤン・アクティビティーズを
どうぞご利用ください。
WEBサイト:http://www.himalayanactivities.com/

ラグーと一緒
約2時間、笑いの絶えない時を過ごした。
そこの会計はソウ兄と2人で支払った。
するとラグーが「もう1軒行きましょう」ということなので、タメル地区に戻って、ホテル近くのバーに入った。
そこで、ネパールの教育問題の話になる。
ネパールでは経済事情から学校に通えない子供たちが少なくないという。
そのため、未就学児の割合や非識字率が他の国よりも高いという望ましくない現状があるそうだ。
ラグーに言われた。
「1人、月に$20あれば子供たちは学校に通えるんです。$20というお金はネパールでは大金です。日本ではどうかわかりません。でも、もしもノブにとって負担でないのであれば、ネパールの子供への学費援助ということも考えてみてください。」
その店を出る時、ラグーが「ここは私に払わせてください」と譲らなかった。
ネパール最後の夜はまだ続く。
3軒目、今までとは打って変わったにぎやかなダンスバーで3度目の乾杯をした。
ソウ兄曰く、「タメルにもこんな場所ができたんだ」。
ラグー曰く、「実は僕もこういう店に来るのは初めてなんですよ」。
かようにネパール、ラストナイトは、完全にラグー演出による「カトマンズ・ナイト・ツアー」で幕を閉じた。
※今回はNAMASTE.TVはお休みです。で、次回が最終回です。
8:30起床。今日もカトマンズは晴れ。
宿を出て、まずは初日にお世話になったヒマラヤン・アクティビティーズに行って、今日訪れるパタン(Patan)への行き方などを聞いてみようということになった。
事務所に着くと、経営者のラグー(Raghu)が笑顔で迎えてくれた。パタンに行くバス停の場所、明日の出国のこと、食堂の場所などを尋ねる。
わかりやすく説明してもらった後に、「今夜メシでもどう?」と誘われる。
別段何をするとも決めていなかったので快諾し、18時ごろ再びここを訪れることを約束する。
まだ朝早いので多くの店はやっていないが、近くのコンチネンタルレストランが空いていたので、そこで朝食を取る。
初めてピザを食べてみたが、悪くなかった。
さて、本日訪れるパタンとは、カトマンズの南に位置する仏教建築や工芸品で有名ないわば古都である。
バス停があるというラトナ・パーク(Ratna Park)まで行って、パタン行きのバスを探す。ところが、どれがどこにいくバスなのか皆目見当がつかない。
何人かに尋ねて回るが、その都度答えは違う。

「日本人ですか?」と日本語で話しかけてきた青年がいて、「どこに行きたいのですか?」と聞かれ、「パタンです」と答えると、バス停の場所と「14番のバスに乗って、10分くらいです」と教えてくれた。お礼を述べると、何を求めるでもなく、そそくさと行ってしまった。
やっと見つけたパタン行きのバスは、バスではなかった。
ハイエース級のワゴンで、そこにスシ詰めにして、移動するのだ。数えると定員10名のワゴンに18名+運転手+車掌で計20名。運賃はRs.10。
腕も上げられない状態で10分ほど揺られ、パタン西側のPATAN GATE近くで降りる。

ところで、我々は今回「地球の歩き方」的なガイドブックを一切持っていっていない。荷物になるし、ガイドブックを頼りにしてしまうと、そこにある情報に縛られてしまうから、ということで意見が一致している。
今回も「前もパタンに来た」というソウ兄の記憶と、事前にWEBで散見した情報、そしてラグーにもらったカトマンズ近郊の地図だけが全てのソースである。
パタンは古都というだけあって、カトマンズほどうるさくはない。街に足を踏み入れると、目の覚めるような見事な仏教寺院、ヒンズー教寺院が建ち並んでいる。
↑こういう感動も事前にガイドブックで、"よく撮れた写真"を見ていると、良かれ悪しかれ大分印象が違うものだ。

ダルバール広場
パタンの中心であるパタン・ダルバール・スクウェア(PATAN DURBAR SQUARE)に行くと、呼び止められ、拝観料的なお金を取られる。
Rs.200と随分高い。
もしかして払わずにも済んだのかもしれないが、お陰でパタンについてのリーフレットと地図をもらったので、よしとする。
それによると見所は、12世紀にバスカル・バルマ王(King Bhaskar Verma)によって、建立されたというヒラーニャ・ヴァルナ・マハヴィール寺院(Hiranya Varna Mahavihar)、別名ゴールデン・テンプル、仏教の庇護者として名高いアショカ王(King Ashoka)が造ったと言われ、街の東西南北に位置する4つのストゥーパ、などなど。
それにしても今日は暑いわけだが、
パタンだけに

犬もパタン。(生きてます)
これがほんとのワンパターン。
手始めにゴールデン・テンプルから行ってみる。
この寺院、なぜゴールデンかというと、ご本尊の仏像や寺院の壁が、金色だから。

リーフレットによると、ブッダの出生から入滅までを綴った絵があると書いてあったのだが、行ってみたらそこには入ることができなかった。なんだよ。
途中、ネパール茶を売っているお茶屋を見つけ、入ってみる。
ソウ兄は6年前もこの店を訪れたそうだ。さすがに店主は覚えていない様子だったが。
親切なご主人で、試したいと言うと、時間をかけてイラム・ティとマサラ・ティを淹れてくれた。
気に入ったお茶をお土産用に何種類かまとめて買うと、頼んでいないのにディスカウントしてくれた。

パタン・ダルバール・スクウェア近くのお茶屋さんです。
続いてクンベシュワール寺院(Kumbheshwor)の五重の塔をかすめて、

アショカ王が紀元前250年、つまり2,200年以上前に建てたという4つのストゥーパのうち北にあるそれを目指す。
散々迷った末に辿り着いたそこに、歴史の重みは残念ながら、微塵も感じられず、むしろ生活臭が漂う民家の間にあった。
当然のごとく建て替えられたのであろうストゥーパはコンクリートで塗り固められていた。
ここに時空を超えた大昔、アショカ王が訪れたのだ、というイマジネーションだけが頼りだった。

広場に戻り、お茶休憩。

鴨の行列眺めつつ
[子の巻]でも書いたことだが、それにしてもネパールには美女そして美男が多い。あくまで日本人的感覚でしかないが、コーカソイド特有の彫りの深さと、モンゴロイドのキレのある顔立ちが見事なバランスで融合しているとでもいうか。

すんません。隠し撮りしました。
さて、帰りは西のアショカ・ストゥーパを眺めて帰ろうということで、西側のゲートに向かう。

バス停に向かう途中、お馴染み給油行列と出くわす。([丑の巻]参照)

ずらーっとゆうに1kmは続いている。
重ねて言いたい。
インド洋での給油活動で揉めている日本政府の皆さん、
どうかネパールに給油してあげてください。
一度宿に戻ってから、17:30頃、ヒマラヤン・アクティビティーズのオフィスに行って、ラグーと合流する。
タメルから10分ほど歩いてラグーが知っているというオープンエアのレストランに行く。
彼と3人で共有した時間は、前日のシェルパ族、パサンさん宅で経験したそれとは趣きは違うが、いずれにしても2夜連続で現地の人と過ごす貴重な体験であった。
彼はさすが客商売をやっているだけあって、きれいな英語を話す上、聞き上手で会話していて楽しい相手だった。
ラグーはすでに妻帯し、子供も1人いるそうだが、その奥さんとの出会いの話が面白い。
要は見合い結婚だったらしいのだが、披露宴を終え、迎えた初夜に彼が妻に対して初めて発した一言は、
"So, what's your name?"
だったそうだ。
聞けば、ラグーとソウ兄は同い年らしいのだが、ツアー会社を立ち上げ、ビジネスを軌道に乗せるまでは並々ならぬ苦労があったようだ。
ぶっちゃけトークということで不躾ながら聞いたのは、彼の経営するヒマラヤン・アクティビティーズに我々はカトマンズ ― ルクラの国内線を手配してもらったわけだが、果たしてその何%が彼らの利益になるのか?ということ。
その答えは3%。
我々が払ったのはUSドルで$200ずつだったので、つまり1人$6ずつということになる。
たったの$6だ。
普通はガイドやポーターをつけることで収入になるのだが、「そういうのいいです」と雇わなかったので、その3%のマージンだけが、彼らに支払った対価ということになる。
・・・その割には、余りあるほどよくしてもらった。
皆さん、カトマンズを訪れた際は
まごころのヒマラヤン・アクティビティーズを
どうぞご利用ください。
WEBサイト:http://www.himalayanactivities.com/

ラグーと一緒
約2時間、笑いの絶えない時を過ごした。
そこの会計はソウ兄と2人で支払った。
するとラグーが「もう1軒行きましょう」ということなので、タメル地区に戻って、ホテル近くのバーに入った。
そこで、ネパールの教育問題の話になる。
ネパールでは経済事情から学校に通えない子供たちが少なくないという。
そのため、未就学児の割合や非識字率が他の国よりも高いという望ましくない現状があるそうだ。
ラグーに言われた。
「1人、月に$20あれば子供たちは学校に通えるんです。$20というお金はネパールでは大金です。日本ではどうかわかりません。でも、もしもノブにとって負担でないのであれば、ネパールの子供への学費援助ということも考えてみてください。」
その店を出る時、ラグーが「ここは私に払わせてください」と譲らなかった。
ネパール最後の夜はまだ続く。
3軒目、今までとは打って変わったにぎやかなダンスバーで3度目の乾杯をした。
ソウ兄曰く、「タメルにもこんな場所ができたんだ」。
ラグー曰く、「実は僕もこういう店に来るのは初めてなんですよ」。
かようにネパール、ラストナイトは、完全にラグー演出による「カトマンズ・ナイト・ツアー」で幕を閉じた。
※今回はNAMASTE.TVはお休みです。で、次回が最終回です。
2007年10月20日
NAMASTE.TV Vol.5
やってきました第5回。
今回はシェルパ族のパサンさんのお宅から。
彼らとは口惜しいことに写真を撮らなかったので、これが唯一の記録となる。
日本の恥?
ありがとう。最高の褒め言葉です。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
今回はシェルパ族のパサンさんのお宅から。
彼らとは口惜しいことに写真を撮らなかったので、これが唯一の記録となる。
日本の恥?
ありがとう。最高の褒め言葉です。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
ネパール・ヒマラヤ紀行[午の巻]
10月3日(水)
カトマンズに戻る日。
5時起床。変な夢を見た。
≪宙を彷徨いながらファミリーマートに行って、「シュークリーム150個ください」、と頼むが「そんなにない」と言われ、「じゃあワッフルでいいです」、ととにかくスウィーツを買おうする夢。≫
よっぽど脳が糖分を欲していた模様。
ともあれ、体調は回復基調にあり、食欲もある。朝食には昨夜味を占めたWaiwai Noodleと紅茶を頼む。
昨日隣の部屋に宿泊していたカナダ人カップルも荷をまとめて食事に降りてきた。昨日は全く余裕がなかったので、ろくに話もしなかったが、挨拶程度に色々話してみると、彼らも我々とほぼ同じコースを辿ったようだ。しかし、この先さらに5週間もネパールに滞在してカトマンズ以外の都市にも行くらしい。しかも、会社の公休を使ってというのだから羨ましい。
6:00、宿から徒歩5分の空港へ。
今日もすっきりと晴れている。どうやら雨季は完全に明けたと考えてよさそうだ。

カトマンズに予定通り帰れるだろうか、という心配は杞憂に終わった。
というのも、天候の関係で20日間連続で欠航になる、なんてこともあるということを事前に調べて知っていたが、この天気なら問題あるまい。
宿の主人が搭乗手続きを済ませてくれた。空港使用料Rs.169と気持ち多めにチップを渡し、別れる。
読書をしつつ飛行機を待つが、7時ごろカトマンズからの新たなトレッカーを乗せた便が滑走路に到着した。

こんな飛行機
カトマンズとルクラを往復するこの飛行機は、ピストン輸送のため、間髪入れずに7:15には離陸。
飛行時間は行きと同じ約30分。
↓カトマンズ近郊からランディングまでを動画に収めてみた。
カトマンズに無事着き、ゲートをくぐったのがまだ8時前。
白タクっぽい兄ちゃんと交渉してRs.250でタメル(Thamel)地区まで行ってもらう。タメルまで約20分。
まだ今日の宿を決めていなかったので、ソウ兄が以前泊まったことがあるという安ホテルを探す。
タメルの東に位置するそのホテル、White Lotusはメイン通りから少し入ったところにあるので、表の喧騒から距離を置くことができてよい。
部屋を見て設備を確認し、ツイン2泊Rs.500で話をまとめる。つまり1人1泊Rs.125という計算になる。安い。
溜まった洗濯物を洗ってから、相当早起きだったこともあり、読書をしながらうつらうつらと舟を漕ぐ。
10:30、ソウ兄にスワヤンブナート、別名モンキー・テンプルと呼ばれる寺院に行くけどと誘われ、誘いに乗る。
ホテルからかれこれ30分ほどかけて徒歩でそこまで行ってみた。炎天下歩くのはくたびれたが、お陰でタメル地区から離れてカトマンズの人々の生活を垣間見ることができた。

周囲はクラクションで相当やかましい
寺に近づけば近づくほど、バクシーシ(喜捨)を求められることが多くなってきた。
さて、ようやくやってきた寺の前で、喉が渇いたので、ジュースを買った時に、自分もソウ兄も1つのことに気づく。
モノが安い。
というのも我々はずっと山岳地帯にいたため、「山価格」でモノを買うことに慣れていたが、運搬が極めて困難な山と違い、カトマンズ市街は遥かに物価が安い。例を出すと、トレッキング中はミネラルウォーター1本Rs.100が相場だったが、こちらではせいぜいRs.20くらいのものだ。
(この5倍という価格差は決して基準にはならないが。)
寺院に足を踏み入れると、さすがモンキー・テンプルの異名があるだけあって、猿がそこかしこにいる。

ずっと石階段を上がり、最後にのけぞりそうになるほど急な階段を昇ると巨大なストゥーパのある頂上に着く。

ほんっとうに険しい階段だった
このストゥーパと、ちょっとした仏像ミュージアムがある以外、別に何が見えるという場所でもないのだが、小高い丘に位置するだけあって、カトマンズの街並みが一望の下に見渡せる。

※クリックで拡大
ついでに1つうんちくを垂れると、カトマンズはここを含む盆地一帯が、世界遺産に登録されており、スワヤンブナートはそこに含まれる代表的建築物に数えられる。
※ネパールの世界遺産には他に、我々が訪れたサガルマータ国立公園、ブッダの生誕の地ルンビニー、南部にあるロイヤル・チトワン国立公園がある。
その後、寺院を降りて、近くにあるというNational History Museumへ向かう。国立美術館なわけだから、正しいネパールの歴史を知ることができそうだ、と期待して行ってみるが、結果とんでもないガッカリポイントだった。
辿り着いてみると「これか?」という門構えで、入口で2人のおばちゃんが干し柿みたいな何かを食べながら茶飲み話をしている。
この時点でいやな予感がしたが、Rs.50ずつ払って薄暗い館内に入ると、中には生物の標本や剥製、模型の類がごちゃっと並べられている。
しかも、寄生虫の標本や熊の剥製などはまだしも、T-REXのミニチュアや理科室にありそうな人体模型まであって、全く節操がない。
なお、客は我々以外誰もいない。
10分もせずに飽きて外に出たところで、そろそろ腹が減り、タメル地区に戻りながら飯屋を探す。
この時点で体調は大分回復していたが、下痢は微妙に続いていたので、お腹にやさしいものを求める。
タメルに戻ってきたところで、「おふくろ食堂」という日本食屋を見つけ、お品書きに「ざるうどん」の一行を発見。ソウ兄共々昨日からずっと「うどん食いたい」、と話していたので、一も二もなく直行する。ざるを頼むとサービスで冷奴と小豆汁が付いてきた。
味はまずまずだったが、何より醤油とカツオ出汁に飢えていたので大満足。

リキシャの後姿。一度も乗らなかったけど。
残りの午後は土産物屋を覗いたり、宿で読書をしたりして、のんびりと過ごしたわけだが、実はこの日は夜に大きなイベントを控えていた。
―発端は、バンコクからカトマンズに向かう飛行機の中。
1人のシェルパ人の方と席が隣になり、ネパールについて事前に色々教えてもらった。その人、アンパサン・シェルパ(Ang Pasang Sherpa、以下パサン)さんのご自宅に、その日の夜に招待してもらうことになっていたのだ。
電話でパサンさんと連絡を取り、18時にわざわざ宿まで迎えに来てくれた。
パサンさんのお宅は王宮を通り過ぎ、タクシーで20分程かけた場所にあり、そこは明らかに高級住宅街とわかる一画であった。
3階建ての実に立派なお家の中に入ると、日本製の家電や立派な家具が並べられている。
そこにはパサンさんの奥さん(若くて美しい)、パサンさんの弟さんとその家族、そしてパサンさんが住んでいる。
なお、パサンさんは姓が示す通り、シェルパ族の方で、1年のうち半分をネパールで、半分を日本で生活している。職業は山岳ガイドで、日本にいる時は、主に北海道でガイドをされているそうだ。無論日本語も堪能。
話していると、1つの質問に丁寧に答えてくれるその姿勢は、ガイドとしてもとっても優秀で引く手数多であろうことを想像させた。
ネパールではGreen Trek & Expedition Nepalという会社を経営されている。
夕食の支度が整うまで、ということでお宅をぐるりと案内してもらった。
1階はリビングとキッチン、2階は寝室とパサンさんのオフィス、3階にはPraying room(祈りの間)があり、屋上に出ると、王宮や今日訪れたモンキー・テンプル、さらに翌日訪れることになるパタンまできれいに見渡せた。
リビングに下りると、彼らは全く飲まないのだが、我々のために冷えたビールを用意しておいてくれた。
程なくキッチンに移動し、奥さんの手料理をいただく。メニューはダール・バート、チキンの煮込み、キュウリの付け合わせ、そしてしじみの味噌汁。どれも美味しかったが、特にダール・バートはこれまで食べた中で最も自分好みの味付けで、病み上がりにもかかわらず、きれいに平らげさせてもらった。
余りのもてなしに最初のうちは恐縮しきりだったが、徐々に打ち解け、その内自然と会話が弾むようになった。
特にシェルパ族のカルチャーには驚かされっぱなしだし、パサンさんはかれこれ20年以上日本に滞在しているので、実に興味深い比較文化論を聞くことができた。
そのいくつかをここに紹介したい。
・パサンさんの年代のシェルパの人々は
自分の正確な誕生日を知らない。
40代以降の方に限った話だが、そのためパスポートや免許証を取る時など生年月日を書く必要がある時は、その時々で適当に書くのだそうだ。1月1日とか4月8日とか。従って、例えば海外で「誕生日はいつだ?」と聞かれ、正直に「知らない」と答えると、「馬鹿にするな」という話になるので、最近は一定の日を答えるようにしているらしい。
当然、誕生日を祝う習慣はない。
・アンパサン=Ang Pasangとは金曜日を意味し、
「金曜日に生まれた子」から付けられたそうだ。
ここでネパールでの2つの邂逅がリンクする。
「ナムチェでパサンさんと全く同じ名前の人に会いましたよ」([卯の巻]参照)
という話をパサンさんにした。
ナムチェバザールで入ったバーのオーナーに1杯おごってもらった話を書いたが、その人がやはりアンパサン・シェルパという名だったのだ。
その時はシェルパ族にはよくある名前なのだろう(実際そういうことになる)、くらいに思っていたのだが、詳しく話すとパサンさんに「ああ、その人なら知り合いですよ」とのこと。なんでも、まだ若かったナムチェのパサンに日本で仕事を紹介したこともあるとか。
しかし、これではまだ驚くほどではない。
続けてカトマンズのパサンさん曰く「彼のお兄さんと私の奥さんのお姉さんは結婚してますよ」との一言。
ちょっと待てよ・・・これがこうなってああなって・・・それって奥さんにとって義理の兄の弟、かなり大雑把に言えば義理の弟ってことじゃないですか!
別段、彼は驚いた様子もなかったが、非常に近しい親族だということは伝わってきた。
しかし、だ。
自分はネパールでは全くのストレンジャーである。
もしもタイからカトマンズに向かう飛行機の席が1列ずれていれば、パサンと出会うことはなかった。
また、あの日ナムチェでたまたまJonathanと道端で会話をしなければ、あのバーに行って、オーナーのパサンと出会うこともなかった。
どちらの出会いも自分にとって点にすぎない。
ところが、その2点が今線となって繋がった。
こうなると恐ろしい確率だと思った。
少数民族、とはいえシェルパ族は世界中に15万人もいるのだから。
旅には時にこういう偶然を結びつける力がある。
話を戻そう。
・ネパールで車を買うには恐ろしくお金がかかる。
正確に言うと、ナンバーを取得するのにアホみたいな税金がかかる。
カトマンズ市街で見かける車は一体いつ製造されたんだ?と思うガタガタの中古車が多い。時には幼稚園児が描いた"くるま"がそのまま街を疾駆している、そう言っても決して大袈裟な表現ではない。
聞けば、車両価格はそれ相応だ。ところが、ナンバープレートを取得するとなると、どんなポンコツでも200万円は下らないのだという。例に出すと、20年落ちの日本車が220万円程度(うち税金が80%)らしい。日本なら、新車ガ買エチャウヨー。
加えて、極度のガソリン不足。([丑の巻]参照)
モータリゼーションの波は押し寄せるが、図らずも行政がそれに歯止めをかけているという状況のようだ。
・ネパールは「世界一物価が高い」。
とはパサンさんの言葉。今まで紹介してきたようにネパールの物価は我々日本人からすれば非常に安い。しかし、それは日本人の給与水準に照らして考えればという話であり、ネパール人の所得には今の物価は似つかわしくなく高い。上記の車の話が好例だ。
つまり、ネパール経済は現在、典型的な不況下の物価高=スタグフレーションの只中にあるということになる。
これまでの道中で、旅慣れた旅行者風を吹かせて、臆面もなく値引き交渉をしてきたことが恥ずかしく思えた。
・日本で働けばネパールに家が建つ。
パサンさんはかれこれ20年、日本とネパールを往復してガイドとして働いてきた。彼自身が優秀だったことも間違いないと思うが、上記の経済格差もあり、結果彼はカトマンズに家を建てて、家族を養うことができるのだという。
全くの余談だが、かつて日本を騒がせた「東電OL殺人事件」で容疑者とされ、高い確率で冤罪が叫ばれる中、最高裁で終身刑の判決を受けたゴビンダ・プラサド・マイナリさんも、日本で働いたお金を祖国ネパールに送金し、家を建設中の折に逮捕されたことを思い出した。
その他、教育の話、職業意識、宗教観など話は多岐にわたるが、帰国した今も未消化の部分が多く、ここで書きつくすことはできない。
とはいえ、深刻な話をピックアップしてまとめているものの、会自体は終始和やかな雰囲気であった。(「NAMASTE.TV Vol.5」を観てもわかる通り)
とにかく稚拙ながら今言えることは、ただ飛行機で席が隣だった、それだけの縁でここまで厚く歓迎してもらったパサンさん一家に筆舌に尽くしがたい感謝の念を感じているということ。
表面的な「観光」では決して覗くことができないネパールの息づく「生活」を感じることができたのは、偏に彼らの親切心に図々しく甘えさせてもらったがゆえだ。
何のお礼もできない我々だが、せめてもの記念にということで、ソウ兄はサングラスを、自分はしていたカチューシャを置いていった。
頃合を見て、パサンさん宅を辞去し、宿まで送ってもらった。
22時過ぎにはベッドに潜り込むが、わんわんと舞う蚊とネパールの実情に対するカルチャーショックが頭上を交錯し、初めて夜半まで寝付けなかった。
明日が実質的にはネパール滞在最後の1日となる。
明日は何が起きるのだろうか。
カトマンズに戻る日。
5時起床。変な夢を見た。
≪宙を彷徨いながらファミリーマートに行って、「シュークリーム150個ください」、と頼むが「そんなにない」と言われ、「じゃあワッフルでいいです」、ととにかくスウィーツを買おうする夢。≫
よっぽど脳が糖分を欲していた模様。
ともあれ、体調は回復基調にあり、食欲もある。朝食には昨夜味を占めたWaiwai Noodleと紅茶を頼む。
昨日隣の部屋に宿泊していたカナダ人カップルも荷をまとめて食事に降りてきた。昨日は全く余裕がなかったので、ろくに話もしなかったが、挨拶程度に色々話してみると、彼らも我々とほぼ同じコースを辿ったようだ。しかし、この先さらに5週間もネパールに滞在してカトマンズ以外の都市にも行くらしい。しかも、会社の公休を使ってというのだから羨ましい。
6:00、宿から徒歩5分の空港へ。
今日もすっきりと晴れている。どうやら雨季は完全に明けたと考えてよさそうだ。

カトマンズに予定通り帰れるだろうか、という心配は杞憂に終わった。
というのも、天候の関係で20日間連続で欠航になる、なんてこともあるということを事前に調べて知っていたが、この天気なら問題あるまい。
宿の主人が搭乗手続きを済ませてくれた。空港使用料Rs.169と気持ち多めにチップを渡し、別れる。
読書をしつつ飛行機を待つが、7時ごろカトマンズからの新たなトレッカーを乗せた便が滑走路に到着した。

こんな飛行機
カトマンズとルクラを往復するこの飛行機は、ピストン輸送のため、間髪入れずに7:15には離陸。
飛行時間は行きと同じ約30分。
↓カトマンズ近郊からランディングまでを動画に収めてみた。
カトマンズに無事着き、ゲートをくぐったのがまだ8時前。
白タクっぽい兄ちゃんと交渉してRs.250でタメル(Thamel)地区まで行ってもらう。タメルまで約20分。
まだ今日の宿を決めていなかったので、ソウ兄が以前泊まったことがあるという安ホテルを探す。
タメルの東に位置するそのホテル、White Lotusはメイン通りから少し入ったところにあるので、表の喧騒から距離を置くことができてよい。
部屋を見て設備を確認し、ツイン2泊Rs.500で話をまとめる。つまり1人1泊Rs.125という計算になる。安い。
溜まった洗濯物を洗ってから、相当早起きだったこともあり、読書をしながらうつらうつらと舟を漕ぐ。
10:30、ソウ兄にスワヤンブナート、別名モンキー・テンプルと呼ばれる寺院に行くけどと誘われ、誘いに乗る。
ホテルからかれこれ30分ほどかけて徒歩でそこまで行ってみた。炎天下歩くのはくたびれたが、お陰でタメル地区から離れてカトマンズの人々の生活を垣間見ることができた。

周囲はクラクションで相当やかましい
寺に近づけば近づくほど、バクシーシ(喜捨)を求められることが多くなってきた。
さて、ようやくやってきた寺の前で、喉が渇いたので、ジュースを買った時に、自分もソウ兄も1つのことに気づく。
モノが安い。
というのも我々はずっと山岳地帯にいたため、「山価格」でモノを買うことに慣れていたが、運搬が極めて困難な山と違い、カトマンズ市街は遥かに物価が安い。例を出すと、トレッキング中はミネラルウォーター1本Rs.100が相場だったが、こちらではせいぜいRs.20くらいのものだ。
(この5倍という価格差は決して基準にはならないが。)
寺院に足を踏み入れると、さすがモンキー・テンプルの異名があるだけあって、猿がそこかしこにいる。

ずっと石階段を上がり、最後にのけぞりそうになるほど急な階段を昇ると巨大なストゥーパのある頂上に着く。

ほんっとうに険しい階段だった
このストゥーパと、ちょっとした仏像ミュージアムがある以外、別に何が見えるという場所でもないのだが、小高い丘に位置するだけあって、カトマンズの街並みが一望の下に見渡せる。
※クリックで拡大
ついでに1つうんちくを垂れると、カトマンズはここを含む盆地一帯が、世界遺産に登録されており、スワヤンブナートはそこに含まれる代表的建築物に数えられる。
※ネパールの世界遺産には他に、我々が訪れたサガルマータ国立公園、ブッダの生誕の地ルンビニー、南部にあるロイヤル・チトワン国立公園がある。
その後、寺院を降りて、近くにあるというNational History Museumへ向かう。国立美術館なわけだから、正しいネパールの歴史を知ることができそうだ、と期待して行ってみるが、結果とんでもないガッカリポイントだった。
辿り着いてみると「これか?」という門構えで、入口で2人のおばちゃんが干し柿みたいな何かを食べながら茶飲み話をしている。
この時点でいやな予感がしたが、Rs.50ずつ払って薄暗い館内に入ると、中には生物の標本や剥製、模型の類がごちゃっと並べられている。
しかも、寄生虫の標本や熊の剥製などはまだしも、T-REXのミニチュアや理科室にありそうな人体模型まであって、全く節操がない。
なお、客は我々以外誰もいない。
10分もせずに飽きて外に出たところで、そろそろ腹が減り、タメル地区に戻りながら飯屋を探す。
この時点で体調は大分回復していたが、下痢は微妙に続いていたので、お腹にやさしいものを求める。
タメルに戻ってきたところで、「おふくろ食堂」という日本食屋を見つけ、お品書きに「ざるうどん」の一行を発見。ソウ兄共々昨日からずっと「うどん食いたい」、と話していたので、一も二もなく直行する。ざるを頼むとサービスで冷奴と小豆汁が付いてきた。
味はまずまずだったが、何より醤油とカツオ出汁に飢えていたので大満足。

リキシャの後姿。一度も乗らなかったけど。
残りの午後は土産物屋を覗いたり、宿で読書をしたりして、のんびりと過ごしたわけだが、実はこの日は夜に大きなイベントを控えていた。
―発端は、バンコクからカトマンズに向かう飛行機の中。
1人のシェルパ人の方と席が隣になり、ネパールについて事前に色々教えてもらった。その人、アンパサン・シェルパ(Ang Pasang Sherpa、以下パサン)さんのご自宅に、その日の夜に招待してもらうことになっていたのだ。
電話でパサンさんと連絡を取り、18時にわざわざ宿まで迎えに来てくれた。
パサンさんのお宅は王宮を通り過ぎ、タクシーで20分程かけた場所にあり、そこは明らかに高級住宅街とわかる一画であった。
3階建ての実に立派なお家の中に入ると、日本製の家電や立派な家具が並べられている。
そこにはパサンさんの奥さん(若くて美しい)、パサンさんの弟さんとその家族、そしてパサンさんが住んでいる。
なお、パサンさんは姓が示す通り、シェルパ族の方で、1年のうち半分をネパールで、半分を日本で生活している。職業は山岳ガイドで、日本にいる時は、主に北海道でガイドをされているそうだ。無論日本語も堪能。
話していると、1つの質問に丁寧に答えてくれるその姿勢は、ガイドとしてもとっても優秀で引く手数多であろうことを想像させた。
ネパールではGreen Trek & Expedition Nepalという会社を経営されている。
夕食の支度が整うまで、ということでお宅をぐるりと案内してもらった。
1階はリビングとキッチン、2階は寝室とパサンさんのオフィス、3階にはPraying room(祈りの間)があり、屋上に出ると、王宮や今日訪れたモンキー・テンプル、さらに翌日訪れることになるパタンまできれいに見渡せた。
リビングに下りると、彼らは全く飲まないのだが、我々のために冷えたビールを用意しておいてくれた。
程なくキッチンに移動し、奥さんの手料理をいただく。メニューはダール・バート、チキンの煮込み、キュウリの付け合わせ、そしてしじみの味噌汁。どれも美味しかったが、特にダール・バートはこれまで食べた中で最も自分好みの味付けで、病み上がりにもかかわらず、きれいに平らげさせてもらった。
余りのもてなしに最初のうちは恐縮しきりだったが、徐々に打ち解け、その内自然と会話が弾むようになった。
特にシェルパ族のカルチャーには驚かされっぱなしだし、パサンさんはかれこれ20年以上日本に滞在しているので、実に興味深い比較文化論を聞くことができた。
そのいくつかをここに紹介したい。
・パサンさんの年代のシェルパの人々は
自分の正確な誕生日を知らない。
40代以降の方に限った話だが、そのためパスポートや免許証を取る時など生年月日を書く必要がある時は、その時々で適当に書くのだそうだ。1月1日とか4月8日とか。従って、例えば海外で「誕生日はいつだ?」と聞かれ、正直に「知らない」と答えると、「馬鹿にするな」という話になるので、最近は一定の日を答えるようにしているらしい。
当然、誕生日を祝う習慣はない。
・アンパサン=Ang Pasangとは金曜日を意味し、
「金曜日に生まれた子」から付けられたそうだ。
ここでネパールでの2つの邂逅がリンクする。
「ナムチェでパサンさんと全く同じ名前の人に会いましたよ」([卯の巻]参照)
という話をパサンさんにした。
ナムチェバザールで入ったバーのオーナーに1杯おごってもらった話を書いたが、その人がやはりアンパサン・シェルパという名だったのだ。
その時はシェルパ族にはよくある名前なのだろう(実際そういうことになる)、くらいに思っていたのだが、詳しく話すとパサンさんに「ああ、その人なら知り合いですよ」とのこと。なんでも、まだ若かったナムチェのパサンに日本で仕事を紹介したこともあるとか。
しかし、これではまだ驚くほどではない。
続けてカトマンズのパサンさん曰く「彼のお兄さんと私の奥さんのお姉さんは結婚してますよ」との一言。
ちょっと待てよ・・・これがこうなってああなって・・・それって奥さんにとって義理の兄の弟、かなり大雑把に言えば義理の弟ってことじゃないですか!
別段、彼は驚いた様子もなかったが、非常に近しい親族だということは伝わってきた。
しかし、だ。
自分はネパールでは全くのストレンジャーである。
もしもタイからカトマンズに向かう飛行機の席が1列ずれていれば、パサンと出会うことはなかった。
また、あの日ナムチェでたまたまJonathanと道端で会話をしなければ、あのバーに行って、オーナーのパサンと出会うこともなかった。
どちらの出会いも自分にとって点にすぎない。
ところが、その2点が今線となって繋がった。
こうなると恐ろしい確率だと思った。
少数民族、とはいえシェルパ族は世界中に15万人もいるのだから。
旅には時にこういう偶然を結びつける力がある。
話を戻そう。
・ネパールで車を買うには恐ろしくお金がかかる。
正確に言うと、ナンバーを取得するのにアホみたいな税金がかかる。
カトマンズ市街で見かける車は一体いつ製造されたんだ?と思うガタガタの中古車が多い。時には幼稚園児が描いた"くるま"がそのまま街を疾駆している、そう言っても決して大袈裟な表現ではない。
聞けば、車両価格はそれ相応だ。ところが、ナンバープレートを取得するとなると、どんなポンコツでも200万円は下らないのだという。例に出すと、20年落ちの日本車が220万円程度(うち税金が80%)らしい。日本なら、新車ガ買エチャウヨー。
加えて、極度のガソリン不足。([丑の巻]参照)
モータリゼーションの波は押し寄せるが、図らずも行政がそれに歯止めをかけているという状況のようだ。
・ネパールは「世界一物価が高い」。
とはパサンさんの言葉。今まで紹介してきたようにネパールの物価は我々日本人からすれば非常に安い。しかし、それは日本人の給与水準に照らして考えればという話であり、ネパール人の所得には今の物価は似つかわしくなく高い。上記の車の話が好例だ。
つまり、ネパール経済は現在、典型的な不況下の物価高=スタグフレーションの只中にあるということになる。
これまでの道中で、旅慣れた旅行者風を吹かせて、臆面もなく値引き交渉をしてきたことが恥ずかしく思えた。
・日本で働けばネパールに家が建つ。
パサンさんはかれこれ20年、日本とネパールを往復してガイドとして働いてきた。彼自身が優秀だったことも間違いないと思うが、上記の経済格差もあり、結果彼はカトマンズに家を建てて、家族を養うことができるのだという。
全くの余談だが、かつて日本を騒がせた「東電OL殺人事件」で容疑者とされ、高い確率で冤罪が叫ばれる中、最高裁で終身刑の判決を受けたゴビンダ・プラサド・マイナリさんも、日本で働いたお金を祖国ネパールに送金し、家を建設中の折に逮捕されたことを思い出した。
その他、教育の話、職業意識、宗教観など話は多岐にわたるが、帰国した今も未消化の部分が多く、ここで書きつくすことはできない。
とはいえ、深刻な話をピックアップしてまとめているものの、会自体は終始和やかな雰囲気であった。(「NAMASTE.TV Vol.5」を観てもわかる通り)
とにかく稚拙ながら今言えることは、ただ飛行機で席が隣だった、それだけの縁でここまで厚く歓迎してもらったパサンさん一家に筆舌に尽くしがたい感謝の念を感じているということ。
表面的な「観光」では決して覗くことができないネパールの息づく「生活」を感じることができたのは、偏に彼らの親切心に図々しく甘えさせてもらったがゆえだ。
何のお礼もできない我々だが、せめてもの記念にということで、ソウ兄はサングラスを、自分はしていたカチューシャを置いていった。
頃合を見て、パサンさん宅を辞去し、宿まで送ってもらった。
22時過ぎにはベッドに潜り込むが、わんわんと舞う蚊とネパールの実情に対するカルチャーショックが頭上を交錯し、初めて夜半まで寝付けなかった。
明日が実質的にはネパール滞在最後の1日となる。
明日は何が起きるのだろうか。
2007年10月19日
NAMASTE.TV Vol.4
ヘロヘロの中撮った第4弾。
テーマはネパールの「食」について。
撮影:ソウ兄(aka It's a SONY)
特別出演:ウシ科ウシ属ヤク太郎
ちなみに「ウシ」と言っていますが、実はヤクです。多分。
同じウシ科なので、区別つきにくいんです。
ヤクの方が毛が長いのが特徴。
どっちにしても、ウシもヤクもヒンズー教の聖獣なので食べません。
(でも水牛は食べる)
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
テーマはネパールの「食」について。
撮影:ソウ兄(aka It's a SONY)
特別出演:ウシ科ウシ属ヤク太郎
ちなみに「ウシ」と言っていますが、実はヤクです。多分。
同じウシ科なので、区別つきにくいんです。
ヤクの方が毛が長いのが特徴。
どっちにしても、ウシもヤクもヒンズー教の聖獣なので食べません。
(でも水牛は食べる)
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
ネパール・ヒマラヤ紀行[巳の巻]
10月2日(火)
7:20起床。
相変わらず食欲は全くなし。ホットオレンジだけ飲む。
ここで3日間世話になったこの宿にもサヨウナラ。
部屋もきれいだったし、料理も美味しかった。それより何よりママとその娘さん(17)の笑顔とホスピタリティにすっかり満足した。
会計を済ませ、お釣りはチップとして渡す。

お世話になりました。
さて、ここからルクラまでの長く辛い旅路が始まることになる。
2日間使って辿った約20kmの道のりを半日で下っていくわけだ。しかも、宿に荷物を置いておけたここ数日とは異なり、背中に10kgのバックパックを背負って。
改めて地図を引用↓
<外部リンク>
ナムチェ・バザール(Namche Bazar)が丁度地図の真ん中左。ルクラはずーっと下った一番下。
始めにナムチェの入口で、普段はまず好んで買うことのないチョコバーを買って無理にでも口に入れる。何しろ昨日、今日と食事をまともにしていないので、糖分を摂っておかないと体が持たない。
しかし、これも結局焼け石に水。
下りや平坦な道はいいのだが、登りが今までありえなかったくらいきついのだ。ほんのちょっと登っただけで息が上がり、冷や汗が出て、休憩しないととても前に進めない。
原因はわかっている。
下痢→食欲不振→貧血というわかりやすい悪循環ゆえ。
それでもパクディン(Phakding)までの道程はよかった。下りがほとんどだったから。とはいえ、ちょっとした坂、例えばジョルサレ→モンジョの間の石階段ですらきつく、一歩一歩踏みしめて登る感じだった。
途中、何度も水を補給するが、売店で売っているフルーツジュースが異常なほどうまそうに見える。Rs.150と結構高いのだが、飲んでみたらやっぱりうまい。というか、これ位しか体が受け付けてくれない。

ベンカー(Benkar)の休憩所。ここでパインジュースをガブ飲み。
かように自分がペースを乱しまくったため、予定より遅れて13時にパクディンに着く。
飯はやっぱり食えないので、またパインジュースとチョコバーを買って無理矢理食べる。余りの食欲不振に、一瞬食中毒も疑うが、この際どっちだっていい。
今重要なのは、なんとしても今日の夕方までにルクラに帰り着かなければならない、ということだけ。

天気はいいんですよ、天気は。
・・・と、毎度のバカ動画「NAMASTE.TV Vol.4」はこんな状態の中撮影した。
「俺って本物のバカだな」と心の中で自分を笑う。
これからの道中(まだ半分残っている)を考え、20分で早めに休憩を切り上げ出発。
が、これがさらなる追い討ちをかけることになる。
パクディンまでは下りメインだったが、ここからルクラまでは200mの登りになる。ここを最も日差しが強い時間に制覇しなければならないことになった。
汗は滴り落ち、顔面蒼白。
途中、自分の2倍はお年を召したトレッカー、
自分の3倍はあろう荷物を運ぶポーター、
自分の4倍の数の胃袋を持つ牛、
などにスイスイと抜かれていく。

この子の笑顔に励まされた。
極端に速度が落ち始めたので、都度待っていてくれたソウ兄に気にせずに先に言ってもらうように頼む。その方が気が楽。
ところが、これがまた裏目に出る。
残り3分の1位のところで完全に独りになるが、ある程度行ったところで、見覚えのある場所を見つけ、よしもうすぐだと安堵する。
そこで↓余裕こいてこんな動画を撮影したわけだが・・・
ちっとも残り10分なんかでは済まなった。
この後大きなミステイクを犯し、
一本道のはずのこのコースで、あろうことか道を間違える。
ルクラに行くにはなだらかな登りを行くはずなのだが、あれ?来る時こんな道通ったっけ?という長い下り坂。
何度か下校途中と思われる少年に「どこ行くの?」と訝しげに聞かれるので、「ルクラ」と答えると遥か上の道を指差して「あっちだよ」との回答。
後で地図を調べたところ、どうやらチャウリカルカ(Chaurikharka)というルクラより西に谷を下りた街に向かって進んでしまったことがわかった。ずっと下を向いて歩いていたため、どこかで本道を外れてしまったようだ。
そのルートからもルクラに辿り着けることは着けるのだが、大きく迂回したルートを辿ることになる。戻ると一層遠回りなので、その道を進むことに決める。
なんにせよ、
下ったということは当然その分また登らなくてはならない。
段々道行く人も少なくなり、日もいよいよ山際から沈もうとしている。
やっと出会った通りすがりのおじさんに「ルクラってこっち?」と尋ねると、ずびっと斜め上方を指差す。一瞬気が遠くなり、"Are you sick?"と聞かれるが、ここで"Yes"と答えてもどうなるものでもなかろうと思い、丈夫を装う。
健常な状態だったら「いけね」程度で、ひょいひょい進めただろうが、今はそうはいかない。
5m行っては休み、また5m行っては水を補給し、を繰り返す。
頭の上の方(正常なルート)から、子供たちの声と牛の首に付けた鈴の音が聞こえる。一方、こちらの道には誰も通らない。
そうやって、当初の予定を2時間上回った17時にようやく本道と合流し、さらに数10m行ったところで、"WELCOME TO LUKLA"の文字。

はっきり言いましょう。
エベレストを目にした時よりも嬉しかった。
ゲートをくぐると、石垣の上でソウ兄が待っていてくれた。ソウ兄は自分より1時間早く到着したようだった。
これこれこうでと状況を報告するが、もはやバックパックのチャックを上げ下げするだけで鬱陶しく思うほど、力は残されていなかった。
そこから10分程歩いて本日逗留するNamaste Lodgeに着く。
とりあえず装備を脱ぎ散らかして、即効でベッドに体を横たえる。
そうして少し仮眠を取り、18時に下の食堂に降りる。
相変わらず食欲はないのだが、カップヌードルの類なら入りそう。(本当は一番ほしいのはうどん)
メニューを見ると、2種類だけインスタント麺を調理したものがある。
2種類とも現物を持ってきてもらって吟味。何しろここでやっぱり何も食えないと、残りの日程も床に伏すことも十分ありえる。
Waiwai Noodle with Veg.という方を頼む。本日3本目のフルーツジュースと温かい紅茶を飲みつつ、待つ。
やってきた麺のスープを口にして「食える」と実感。味はサッポロ一番のしょうゆに近い。
助かった。
一口一口、体に栄養が染み渡り、生き返っていくのがわかる。
食後はこんな体調ということもあり、汗は大量にかいたが、シャワーは浴びずに簡単に体を拭くだけで済ませる。
20:30には床に入り、文字通り泥のように深い眠りに落ちた。
エベレスト街道トレッキング ― その終わりは、このように長い長い1日を持って幕を閉じることとなった。
7:20起床。
相変わらず食欲は全くなし。ホットオレンジだけ飲む。
ここで3日間世話になったこの宿にもサヨウナラ。
部屋もきれいだったし、料理も美味しかった。それより何よりママとその娘さん(17)の笑顔とホスピタリティにすっかり満足した。
会計を済ませ、お釣りはチップとして渡す。

お世話になりました。
さて、ここからルクラまでの長く辛い旅路が始まることになる。
2日間使って辿った約20kmの道のりを半日で下っていくわけだ。しかも、宿に荷物を置いておけたここ数日とは異なり、背中に10kgのバックパックを背負って。
改めて地図を引用↓
<外部リンク>
ナムチェ・バザール(Namche Bazar)が丁度地図の真ん中左。ルクラはずーっと下った一番下。
始めにナムチェの入口で、普段はまず好んで買うことのないチョコバーを買って無理にでも口に入れる。何しろ昨日、今日と食事をまともにしていないので、糖分を摂っておかないと体が持たない。
しかし、これも結局焼け石に水。
下りや平坦な道はいいのだが、登りが今までありえなかったくらいきついのだ。ほんのちょっと登っただけで息が上がり、冷や汗が出て、休憩しないととても前に進めない。
原因はわかっている。
下痢→食欲不振→貧血というわかりやすい悪循環ゆえ。
それでもパクディン(Phakding)までの道程はよかった。下りがほとんどだったから。とはいえ、ちょっとした坂、例えばジョルサレ→モンジョの間の石階段ですらきつく、一歩一歩踏みしめて登る感じだった。
途中、何度も水を補給するが、売店で売っているフルーツジュースが異常なほどうまそうに見える。Rs.150と結構高いのだが、飲んでみたらやっぱりうまい。というか、これ位しか体が受け付けてくれない。

ベンカー(Benkar)の休憩所。ここでパインジュースをガブ飲み。
かように自分がペースを乱しまくったため、予定より遅れて13時にパクディンに着く。
飯はやっぱり食えないので、またパインジュースとチョコバーを買って無理矢理食べる。余りの食欲不振に、一瞬食中毒も疑うが、この際どっちだっていい。
今重要なのは、なんとしても今日の夕方までにルクラに帰り着かなければならない、ということだけ。

天気はいいんですよ、天気は。
・・・と、毎度のバカ動画「NAMASTE.TV Vol.4」はこんな状態の中撮影した。
「俺って本物のバカだな」と心の中で自分を笑う。
これからの道中(まだ半分残っている)を考え、20分で早めに休憩を切り上げ出発。
が、これがさらなる追い討ちをかけることになる。
パクディンまでは下りメインだったが、ここからルクラまでは200mの登りになる。ここを最も日差しが強い時間に制覇しなければならないことになった。
汗は滴り落ち、顔面蒼白。
途中、自分の2倍はお年を召したトレッカー、
自分の3倍はあろう荷物を運ぶポーター、
自分の4倍の数の胃袋を持つ牛、
などにスイスイと抜かれていく。

この子の笑顔に励まされた。
極端に速度が落ち始めたので、都度待っていてくれたソウ兄に気にせずに先に言ってもらうように頼む。その方が気が楽。
ところが、これがまた裏目に出る。
残り3分の1位のところで完全に独りになるが、ある程度行ったところで、見覚えのある場所を見つけ、よしもうすぐだと安堵する。
そこで↓余裕こいてこんな動画を撮影したわけだが・・・
ちっとも残り10分なんかでは済まなった。
この後大きなミステイクを犯し、
一本道のはずのこのコースで、あろうことか道を間違える。
ルクラに行くにはなだらかな登りを行くはずなのだが、あれ?来る時こんな道通ったっけ?という長い下り坂。
何度か下校途中と思われる少年に「どこ行くの?」と訝しげに聞かれるので、「ルクラ」と答えると遥か上の道を指差して「あっちだよ」との回答。
後で地図を調べたところ、どうやらチャウリカルカ(Chaurikharka)というルクラより西に谷を下りた街に向かって進んでしまったことがわかった。ずっと下を向いて歩いていたため、どこかで本道を外れてしまったようだ。
そのルートからもルクラに辿り着けることは着けるのだが、大きく迂回したルートを辿ることになる。戻ると一層遠回りなので、その道を進むことに決める。
なんにせよ、
下ったということは当然その分また登らなくてはならない。
段々道行く人も少なくなり、日もいよいよ山際から沈もうとしている。
やっと出会った通りすがりのおじさんに「ルクラってこっち?」と尋ねると、ずびっと斜め上方を指差す。一瞬気が遠くなり、"Are you sick?"と聞かれるが、ここで"Yes"と答えてもどうなるものでもなかろうと思い、丈夫を装う。
健常な状態だったら「いけね」程度で、ひょいひょい進めただろうが、今はそうはいかない。
5m行っては休み、また5m行っては水を補給し、を繰り返す。
頭の上の方(正常なルート)から、子供たちの声と牛の首に付けた鈴の音が聞こえる。一方、こちらの道には誰も通らない。
そうやって、当初の予定を2時間上回った17時にようやく本道と合流し、さらに数10m行ったところで、"WELCOME TO LUKLA"の文字。

はっきり言いましょう。
エベレストを目にした時よりも嬉しかった。
ゲートをくぐると、石垣の上でソウ兄が待っていてくれた。ソウ兄は自分より1時間早く到着したようだった。
これこれこうでと状況を報告するが、もはやバックパックのチャックを上げ下げするだけで鬱陶しく思うほど、力は残されていなかった。
そこから10分程歩いて本日逗留するNamaste Lodgeに着く。
とりあえず装備を脱ぎ散らかして、即効でベッドに体を横たえる。
そうして少し仮眠を取り、18時に下の食堂に降りる。
相変わらず食欲はないのだが、カップヌードルの類なら入りそう。(本当は一番ほしいのはうどん)
メニューを見ると、2種類だけインスタント麺を調理したものがある。
2種類とも現物を持ってきてもらって吟味。何しろここでやっぱり何も食えないと、残りの日程も床に伏すことも十分ありえる。
Waiwai Noodle with Veg.という方を頼む。本日3本目のフルーツジュースと温かい紅茶を飲みつつ、待つ。
やってきた麺のスープを口にして「食える」と実感。味はサッポロ一番のしょうゆに近い。
助かった。
一口一口、体に栄養が染み渡り、生き返っていくのがわかる。
食後はこんな体調ということもあり、汗は大量にかいたが、シャワーは浴びずに簡単に体を拭くだけで済ませる。
20:30には床に入り、文字通り泥のように深い眠りに落ちた。
エベレスト街道トレッキング ― その終わりは、このように長い長い1日を持って幕を閉じることとなった。
2007年10月18日
NAMASTE.TV Vol.3
今回はいたって真面目に、標高3,880mの地から、ヒマラヤ山脈をレポート。
「ネパール・ヒマラヤ紀行[辰の巻]」を先にお読みいただくことをお薦めします。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
「ネパール・ヒマラヤ紀行[辰の巻]」を先にお読みいただくことをお薦めします。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
ネパール・ヒマラヤ紀行[辰の巻]
10月1日(月)
6:30、ソウ兄の「ノブ、外見てみ」という一言で起こされる。
顔を上げると、目を細めたくなるような見事なピーカン。

なんともはや、最後の最後でついているとしかいいようがない。
そそくさと準備をしてさっさと朝食。オムレツとトーストだけ。
山の神の気が変わらぬうちにと、昨日より1時間早い8:00に出発。

おじいさーーん・・・って感じ?
辿るのは昨日と同じルートのため、迷うこともなくペースは速め。
昨日は影も形も見えなかった山々が今日ははっきりと見える。

1時間後の9:00にはEverest View Hotelの入口に辿り着いた。
いよいよ、と胸の高鳴りを抑え、カフェテラスに出ると、そこには明らかに昨日とは違うパノラマが。
ご紹介しましょう。
真ん中でその嶺を覗かせているのが"TOP OF THE WORLD"、マウント・エベレストです。

※クリックで拡大
今回のベストショットです。
今回の旅でざっと500枚の写真を撮影したが、元を正せばこの1枚を収めるためだけにここまで来たといっても過言ではない。
最後の最後、今日がラストというこの日にこうやって威風堂々たるエベレストを正面に捉えることができたのは、なんともドラマチックとしか言いようがない。
かつて見た1枚の写真でその圧倒的な存在感に畏れを感じたエベレストが、今眼前にある ― 身が震えた。
しばらくそこに滞在してボーっと山を眺めたり、写真や動画を撮って過ごした。

わかりやすく旗を立ててみました。
なお、隣の山は昨日張り込んだ末に見ることができたローチェ・シャー。
さらに我々が幸運だったのは、到着して1時間もすると雲が山を伝って降りてきて、エベレストは姿を隠してしまった。
つまり、昨日と同じ時間に出発していたらやっぱりエベレストは見れなかったということだ。
余談だが、日本を発つ前に「ネパールでヒマラヤ街道トレッキングをしてくる」と話すと、「ええ!エベレスト登るの??」と勘違いされることがしばしばあった。
エベレストを登るには相当な高地トレーニングと十分な装備、そしてネパール政府に払う登山料2万5千ドル(300万円、団体割引あり)を必要とする。つまり、素人には無理、ということだ。
どちらにせよ、我々にはこれくらいが丁度いい。
さて、結局2時間近くそこにいただろうか。
エベレスト以外の山々もしっかりと記憶に刻み、クムジュンに向かうことに。
・・・ここで目的を達成してほっとしたのか、集中の糸が切れたのか、急に気分が悪くなってくる。実は朝から軽く下痢気味だったのだが、晴れた高揚感がそれを隠していたようだ。

クムジュン再び。「シーター」、「パズー」って感じ?
クムジュンに着く頃にはくらっと来るようになり、芝生に横になって休む。そこでようやく認める。
― 風邪引いたかも。
食欲も途絶え、入ったレストランではホットオレンジだけオーダーして薬を飲み、横になって回復を待つ。
ソウ兄に待ってもらって、13:00までそこで休む。
気分は晴れないが、どの道帰らないとどうしようもないし、何とか奮い立たせて出発。
クムジュンからナムチェまでの道は高低差がないのでまだ助かる。
とにかく早くベッドに横になりたかった。
昨日と同じFirst View Pointに着くが、山々はすでに雲に覆われていた。

結局、そこでも1時間ほど岩の上で寝て少しでも体力回復を図る。

寝転んで見た空。きれいなんだけどね。
14時に再出発。ソウ兄には悪いことをした。途中、挫けそうな心を歌で紛らわす。(『おお牧場は緑』とか)
15時にはナムチェの街が見える。
ソウ兄と分かれ、真っ直ぐに宿に帰ることにした。余裕なし。
なんやかんやで宿に着いたのは15:25.
即効で脱衣→トイレ→ドカ寝。
ソウ兄は16時ごろ戻ってくるが、気にせず18時前まで床に伏せる。
お陰でいくらかよくなったため、街に出て長袖のトレッキングシャツを買いに行く。恐らく体調不良の原因が昨夜体を冷やしたことだと思われるから。
宿に戻って夕食。チョーメンとスープを頼むが、チョーメンの中の肉が食えない。他は無理やり詰め込んだものの、不本意ながら肉だけ残す。
今夜はナムチェでのラストナイトなので、昨日に続いてClub Paradiseに行く予定だったが、大事をとってソウ兄1人で行ってもらう。
パサンに会って最後の挨拶をしたかったが、仕方がない。
そのまま部屋で読書→就寝。
ソウ兄も21時頃には帰ってきた。
本格的に下痢が発症したようで、夜中何度かトイレのために目が覚める。
まさに一喜一憂の1日であった。
明日は一気にルクラまで下るので7、8時間歩かなければならない。体が持つか不安だったが、残念なことにこの不安は的中することになる。
6:30、ソウ兄の「ノブ、外見てみ」という一言で起こされる。
顔を上げると、目を細めたくなるような見事なピーカン。

なんともはや、最後の最後でついているとしかいいようがない。
そそくさと準備をしてさっさと朝食。オムレツとトーストだけ。
山の神の気が変わらぬうちにと、昨日より1時間早い8:00に出発。

おじいさーーん・・・って感じ?
辿るのは昨日と同じルートのため、迷うこともなくペースは速め。
昨日は影も形も見えなかった山々が今日ははっきりと見える。

1時間後の9:00にはEverest View Hotelの入口に辿り着いた。
いよいよ、と胸の高鳴りを抑え、カフェテラスに出ると、そこには明らかに昨日とは違うパノラマが。
ご紹介しましょう。
真ん中でその嶺を覗かせているのが"TOP OF THE WORLD"、マウント・エベレストです。
※クリックで拡大
今回のベストショットです。
今回の旅でざっと500枚の写真を撮影したが、元を正せばこの1枚を収めるためだけにここまで来たといっても過言ではない。
最後の最後、今日がラストというこの日にこうやって威風堂々たるエベレストを正面に捉えることができたのは、なんともドラマチックとしか言いようがない。
かつて見た1枚の写真でその圧倒的な存在感に畏れを感じたエベレストが、今眼前にある ― 身が震えた。
しばらくそこに滞在してボーっと山を眺めたり、写真や動画を撮って過ごした。

わかりやすく旗を立ててみました。
なお、隣の山は昨日張り込んだ末に見ることができたローチェ・シャー。
さらに我々が幸運だったのは、到着して1時間もすると雲が山を伝って降りてきて、エベレストは姿を隠してしまった。
つまり、昨日と同じ時間に出発していたらやっぱりエベレストは見れなかったということだ。
余談だが、日本を発つ前に「ネパールでヒマラヤ街道トレッキングをしてくる」と話すと、「ええ!エベレスト登るの??」と勘違いされることがしばしばあった。
エベレストを登るには相当な高地トレーニングと十分な装備、そしてネパール政府に払う登山料2万5千ドル(300万円、団体割引あり)を必要とする。つまり、素人には無理、ということだ。
どちらにせよ、我々にはこれくらいが丁度いい。
さて、結局2時間近くそこにいただろうか。
エベレスト以外の山々もしっかりと記憶に刻み、クムジュンに向かうことに。
・・・ここで目的を達成してほっとしたのか、集中の糸が切れたのか、急に気分が悪くなってくる。実は朝から軽く下痢気味だったのだが、晴れた高揚感がそれを隠していたようだ。

クムジュン再び。「シーター」、「パズー」って感じ?
クムジュンに着く頃にはくらっと来るようになり、芝生に横になって休む。そこでようやく認める。
― 風邪引いたかも。
食欲も途絶え、入ったレストランではホットオレンジだけオーダーして薬を飲み、横になって回復を待つ。
ソウ兄に待ってもらって、13:00までそこで休む。
気分は晴れないが、どの道帰らないとどうしようもないし、何とか奮い立たせて出発。
クムジュンからナムチェまでの道は高低差がないのでまだ助かる。
とにかく早くベッドに横になりたかった。
昨日と同じFirst View Pointに着くが、山々はすでに雲に覆われていた。

結局、そこでも1時間ほど岩の上で寝て少しでも体力回復を図る。

寝転んで見た空。きれいなんだけどね。
14時に再出発。ソウ兄には悪いことをした。途中、挫けそうな心を歌で紛らわす。(『おお牧場は緑』とか)
15時にはナムチェの街が見える。
ソウ兄と分かれ、真っ直ぐに宿に帰ることにした。余裕なし。
なんやかんやで宿に着いたのは15:25.
即効で脱衣→トイレ→ドカ寝。
ソウ兄は16時ごろ戻ってくるが、気にせず18時前まで床に伏せる。
お陰でいくらかよくなったため、街に出て長袖のトレッキングシャツを買いに行く。恐らく体調不良の原因が昨夜体を冷やしたことだと思われるから。
宿に戻って夕食。チョーメンとスープを頼むが、チョーメンの中の肉が食えない。他は無理やり詰め込んだものの、不本意ながら肉だけ残す。
今夜はナムチェでのラストナイトなので、昨日に続いてClub Paradiseに行く予定だったが、大事をとってソウ兄1人で行ってもらう。
パサンに会って最後の挨拶をしたかったが、仕方がない。
そのまま部屋で読書→就寝。
ソウ兄も21時頃には帰ってきた。
本格的に下痢が発症したようで、夜中何度かトイレのために目が覚める。
まさに一喜一憂の1日であった。
明日は一気にルクラまで下るので7、8時間歩かなければならない。体が持つか不安だったが、残念なことにこの不安は的中することになる。
2007年10月17日
NAMASTE.TV Vol.2
昨日に続いて「NAMASTE.TV」の第2弾。
Everest View Hotelのカフェテラスにて撮影。
結局のところ、エベレスト見れなかった口惜し紛れに他ならない。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
Everest View Hotelのカフェテラスにて撮影。
結局のところ、エベレスト見れなかった口惜し紛れに他ならない。
【NAMASTE.TV (動画)】
■ NAMASTE.TV Vol.1・・・・・・9/29撮影
■ NAMASTE.TV Vol.2・・・・・・9/30撮影
■ NAMASTE.TV Vol.3・・・・・・10/1撮影
■ NAMASTE.TV Vol.4・・・・・・10/2撮影
■ NAMASTE.TV Vol.5・・・・・・10/3撮影
■ NAMASTE.TV Vol.6・・・・・・10/5撮影
ネパール・ヒマラヤ紀行[卯の巻]
9月30日(日)
7:30起床。
雨は止んでいる。期待大。

朝食には今日もガーリックスープをオーダー。普段、朝にニンニクを食べることなどまずありえないので、軽い違和感と共に、非日常的な行為に対する愉悦を覚える。
Base Campを目指すChristineを見送ってから洗濯をする。
支度を整え、9時に出発。今日は大荷物は部屋に置いていけるので実に楽チン。
ルートはシャンボチェ(Syangboche)のEverest View Hotelを経由してクムジュン(Khumjung)まで行って、ナムチェに戻ってくるというコース。

ナムチェを見下ろす位置。「マチュピチュ行ったんだ」って言ったら騙される人も少なくあるまい。
ロッジから見上げることができる斜面をガツガツと登るが、登山道は細く傾斜はきつい。加えて、道が何度も枝分かれするため、どっちに進めばよいかわからなくなる。
ここに来て初めて、ガイドの必要性を感じた。
頂に見えるストゥーパ(仏塔)をマイルストーンに1時間ほどかけて休み休み登る。目印のストゥーパを過ぎると、傾斜はかなり楽になり、視界も開け、渓谷を見下ろせる絶景が広がる。

※クリックで拡大

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Everest View Hotelには11時に到着した。
余談だが、Everest View Hotelについて少し説明すると、1972年に竣工したこのホテルは、標高3,880mに位置する世界で一番標高の高い場所に建つホテルとして有名。
(ちなみに富士山の標高は3,776m)
このホテルは日本人の手によって建てられ、現在も日本の会社によって運営されている。値段も高い。

さて、このホテルにはカフェテラスがあり、そこからエベレストが見える文字通りエベレスト・ビューなわけで、宿泊するととっても高いけど、テラスにいる分には紅茶一杯でなんぼでもいられる素敵スポットなのである。
しかし、テラスに出てみると空は厚い雲で覆われており、エベレストは元より一番手前の山でさえ姿を隠している。

本来ならあの雲の向こうに・・・。
そこには昨日ナムチェのレストランで見かけた日本人のカップルが。話してみたところ、彼らとは関空からカトマンズまでずっと一緒の飛行機だったことが判明し、奇しくも同じ日に同じタイミングでこの場所にいる妙縁を分かち合う。
彼らは大阪から来た実は新婚さんだったのだが、かつてはお互いバックパッカーだったそうだ。普通、新婚旅行といえば「南の島」というのが相場だと思うが、自分としてはちょっと辛い思いを一緒にして、達成感を共有できるこういう旅の方がよっぽど新婚旅行には向いていると思う。ゆえにこうして付いて来てくれる女性を見つけた彼を羨ましく思った。(曰く『彼女の方が連れ回している』そうだが)
なお、彼らは帰りもバンコクまで同じ飛行機なので、これからもちょいちょい遭遇することになる。
それはそれとして、結局エベレストは見れず、歯噛みしつつクムジュン(Khumjung)へ向けて下る。道はずっと下りで、昼過ぎにはクムジュンに到着した。

クムジュンも大きな街だ。面積で行ったらナムチェより大きいかもしれない。しかし、この街は底冷えするように静まり返っている。ナムチェでは人が行き交い、売り子が声を張り上げ、石を打つ音が絶えず聞こえるのだが、ここではヤクの首に付けた鈴がカラカラと鳴るくらいだ。
なんでもこの地で、かの植村直己がエベレスト登頂に向けての高地トレーニングを積んだという話を聞いていたので、ゆかりの場所がないか聞いてみようと思ったが、道行く人の反応はよろしくない。
単に英語を話さないだけの話かと言えば、西洋人向けのロッジが一杯あるわけなので、そういうわけでもなさそうだ。
結論から言うと、別に無愛想なわけでもヨソ者を差別しているわけでもなく、ここの人たちは単にのんびりしているだけなのだ。
ソウ兄が売店のおじさんに「ここはナムチェに比べて静かだねえ」と言うと、「ナムチェがうるさいだけさ」という答えが返ってきたそうだ。
のんびりの裏づけといってはなんだが、昼食に入った食堂でチキンスープとチャパティを頼んだだけで50分も待たされた。
が、何も悪びれた様子もない笑顔とともに料理が運ばれてくると、むしろこちらのせせこましさを教えられたようだった。確かに何を急ぐわけでもなし。
13:00過ぎにクムジュンを発ち、キャンジュマ(Kyangjuma)という小さな町を経由して、First View Pointと言われる場所へ。そこからはエベレストこそ見えないが、ローチェ・シャー(Lhotse Shar 8,383m)、アマ・ダブラム(Amai Dablang 6,856m)を始めとするヒマラヤの山々が一望の下に見渡せる。
恐らくそこと思われる場所は、意外なほど近く30分ほどで着いてしまった。そこには特に何があるわけではなく、路傍にゴロンと大きな岩が転がっているだけのところで、その岩に座って、山々を臨む。
しかし、天気は相変わらずの曇天。
めげずに大岩に腰掛け、ひたすら天気が変わるのを待つ。
― 1時間はいただろうか、一時は雲の中にすっぽりと入り、辺り一面乳白色に包まれていたのが、甲斐あって段々と雲が散っていった。

すっぽり雲の中
そして遂にヒマラヤ山脈の巨大な一角がわずかながら頭を覗かせる。
ローチェ・シャーだった。
考えにくい目線の高さにあったので、始めは雲の切れ目にしか見えなかった。それが徐々に山の形を見せた時、空から山が落ちてきた、そんな感覚に陥った。
それほど高く雄大で、人を感動させるには十分すぎるほどの「大きさ」だった。

※クリックで拡大
さらに30分ほどそこでウォッチングを続け、15時を回った辺りで後ろ髪引かれつつもナムチェに戻ることにした。
明日はナムチェ滞在最後の日なので、なんとか晴れてエベレストが見えるとよいのだが。
帰り道は実にフラットで16時過ぎにはナムチェに帰り着く。
街には今までとはまた違うルートで下りるが、途中小学校や石切り場を目にした。

左手奥が小学校
宿に戻るとママが我々の洗濯物をきれいに畳んでおいてくれていた。ありがたい。
一度部屋に戻り、暗くなる前にとポイを取り出してまた近場で回す。

ソウ兄と近所のお子様。結構気に入っている一枚。
夕食のためロッジの食堂に行くと、ノルウェー人のオーヴィンがいる。今日はどうしてた、明日はどうする、ノルウェーではこうだ、日本はどうだ、とか他愛のない会話だが、やはりこういう時間が嬉しい。
夕食の後、昨日行けなかったClub Paradiseに行ってみることにした。
場所は案外あっさりと見つかり、中に入ってみたが、見たところJonathanは来ていないようだった。
しかし、そこのオーナーのアンパサン・シェルパ(Ang Pasang Sherpa 以下パサン)が、大の日本びいきで、昔東京に住んでいたということで盛り上がる。
妙に器用な日本語で話しかけてきて、一杯おごってくれたりするものだから、最初のうちは裏があるのではないかと勘ぐってしまったほどだ。
が、彼は単純に楽しかった東京での生活を共感してくれる人がいて嬉しかっただけで、第一彼は我々よりもよっぽど金持ちだ。
なんでもナムチェでは4軒ほど店を経営していて、奥さんと子供はカトマンズに住んでいるのだとか。店にはビリヤード台が置いてあって驚いたが、これもパサンの仕込みだと言う。(ヘリで運んだらしい)
そして何よりここでのパサンとの出会いは、カトマンズに戻ってから新たな偶然とリンクすることになる。
途中でJonathanがやってきたはいいが、何やらツケが溜まっていて込み入った話をしていたので、結局あまり話すことはできなかった。
ソウ兄とビリヤードを1ゲームやって(負け)、帰途に着く。
パサンとの会話は大いに有益で、特に疑問に感じていたネパール人の宗教観(ヒンズー教と仏教が混在する民族性とその融和点)について聞けたのは収穫だった。
さて、明日がエベレスト・ラストトライになるわけだが、この時点でも星空は厚い雲に隠されており、期待感を削ぎ落としてくれる。
しかし、ここに至るまでの充足感を考えると、仮にエベレストが見れなければ見れないでも、まあ別にいいかとも思えてくる。
そもそも何故エベレストにこだわるのか?と聞か
7:30起床。
雨は止んでいる。期待大。

朝食には今日もガーリックスープをオーダー。普段、朝にニンニクを食べることなどまずありえないので、軽い違和感と共に、非日常的な行為に対する愉悦を覚える。
Base Campを目指すChristineを見送ってから洗濯をする。
支度を整え、9時に出発。今日は大荷物は部屋に置いていけるので実に楽チン。
ルートはシャンボチェ(Syangboche)のEverest View Hotelを経由してクムジュン(Khumjung)まで行って、ナムチェに戻ってくるというコース。

ナムチェを見下ろす位置。「マチュピチュ行ったんだ」って言ったら騙される人も少なくあるまい。
ロッジから見上げることができる斜面をガツガツと登るが、登山道は細く傾斜はきつい。加えて、道が何度も枝分かれするため、どっちに進めばよいかわからなくなる。
ここに来て初めて、ガイドの必要性を感じた。
頂に見えるストゥーパ(仏塔)をマイルストーンに1時間ほどかけて休み休み登る。目印のストゥーパを過ぎると、傾斜はかなり楽になり、視界も開け、渓谷を見下ろせる絶景が広がる。
※クリックで拡大
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Everest View Hotelには11時に到着した。
余談だが、Everest View Hotelについて少し説明すると、1972年に竣工したこのホテルは、標高3,880mに位置する世界で一番標高の高い場所に建つホテルとして有名。
(ちなみに富士山の標高は3,776m)
このホテルは日本人の手によって建てられ、現在も日本の会社によって運営されている。値段も高い。

さて、このホテルにはカフェテラスがあり、そこからエベレストが見える文字通りエベレスト・ビューなわけで、宿泊するととっても高いけど、テラスにいる分には紅茶一杯でなんぼでもいられる素敵スポットなのである。
しかし、テラスに出てみると空は厚い雲で覆われており、エベレストは元より一番手前の山でさえ姿を隠している。

本来ならあの雲の向こうに・・・。
そこには昨日ナムチェのレストランで見かけた日本人のカップルが。話してみたところ、彼らとは関空からカトマンズまでずっと一緒の飛行機だったことが判明し、奇しくも同じ日に同じタイミングでこの場所にいる妙縁を分かち合う。
彼らは大阪から来た実は新婚さんだったのだが、かつてはお互いバックパッカーだったそうだ。普通、新婚旅行といえば「南の島」というのが相場だと思うが、自分としてはちょっと辛い思いを一緒にして、達成感を共有できるこういう旅の方がよっぽど新婚旅行には向いていると思う。ゆえにこうして付いて来てくれる女性を見つけた彼を羨ましく思った。(曰く『彼女の方が連れ回している』そうだが)
なお、彼らは帰りもバンコクまで同じ飛行機なので、これからもちょいちょい遭遇することになる。
それはそれとして、結局エベレストは見れず、歯噛みしつつクムジュン(Khumjung)へ向けて下る。道はずっと下りで、昼過ぎにはクムジュンに到着した。

クムジュンも大きな街だ。面積で行ったらナムチェより大きいかもしれない。しかし、この街は底冷えするように静まり返っている。ナムチェでは人が行き交い、売り子が声を張り上げ、石を打つ音が絶えず聞こえるのだが、ここではヤクの首に付けた鈴がカラカラと鳴るくらいだ。
なんでもこの地で、かの植村直己がエベレスト登頂に向けての高地トレーニングを積んだという話を聞いていたので、ゆかりの場所がないか聞いてみようと思ったが、道行く人の反応はよろしくない。
単に英語を話さないだけの話かと言えば、西洋人向けのロッジが一杯あるわけなので、そういうわけでもなさそうだ。
結論から言うと、別に無愛想なわけでもヨソ者を差別しているわけでもなく、ここの人たちは単にのんびりしているだけなのだ。
ソウ兄が売店のおじさんに「ここはナムチェに比べて静かだねえ」と言うと、「ナムチェがうるさいだけさ」という答えが返ってきたそうだ。
のんびりの裏づけといってはなんだが、昼食に入った食堂でチキンスープとチャパティを頼んだだけで50分も待たされた。
が、何も悪びれた様子もない笑顔とともに料理が運ばれてくると、むしろこちらのせせこましさを教えられたようだった。確かに何を急ぐわけでもなし。
13:00過ぎにクムジュンを発ち、キャンジュマ(Kyangjuma)という小さな町を経由して、First View Pointと言われる場所へ。そこからはエベレストこそ見えないが、ローチェ・シャー(Lhotse Shar 8,383m)、アマ・ダブラム(Amai Dablang 6,856m)を始めとするヒマラヤの山々が一望の下に見渡せる。
恐らくそこと思われる場所は、意外なほど近く30分ほどで着いてしまった。そこには特に何があるわけではなく、路傍にゴロンと大きな岩が転がっているだけのところで、その岩に座って、山々を臨む。
しかし、天気は相変わらずの曇天。
めげずに大岩に腰掛け、ひたすら天気が変わるのを待つ。
― 1時間はいただろうか、一時は雲の中にすっぽりと入り、辺り一面乳白色に包まれていたのが、甲斐あって段々と雲が散っていった。

すっぽり雲の中
そして遂にヒマラヤ山脈の巨大な一角がわずかながら頭を覗かせる。
ローチェ・シャーだった。
考えにくい目線の高さにあったので、始めは雲の切れ目にしか見えなかった。それが徐々に山の形を見せた時、空から山が落ちてきた、そんな感覚に陥った。
それほど高く雄大で、人を感動させるには十分すぎるほどの「大きさ」だった。
※クリックで拡大
さらに30分ほどそこでウォッチングを続け、15時を回った辺りで後ろ髪引かれつつもナムチェに戻ることにした。
明日はナムチェ滞在最後の日なので、なんとか晴れてエベレストが見えるとよいのだが。
帰り道は実にフラットで16時過ぎにはナムチェに帰り着く。
街には今までとはまた違うルートで下りるが、途中小学校や石切り場を目にした。

左手奥が小学校
宿に戻るとママが我々の洗濯物をきれいに畳んでおいてくれていた。ありがたい。
一度部屋に戻り、暗くなる前にとポイを取り出してまた近場で回す。

ソウ兄と近所のお子様。結構気に入っている一枚。
夕食のためロッジの食堂に行くと、ノルウェー人のオーヴィンがいる。今日はどうしてた、明日はどうする、ノルウェーではこうだ、日本はどうだ、とか他愛のない会話だが、やはりこういう時間が嬉しい。
夕食の後、昨日行けなかったClub Paradiseに行ってみることにした。
場所は案外あっさりと見つかり、中に入ってみたが、見たところJonathanは来ていないようだった。
しかし、そこのオーナーのアンパサン・シェルパ(Ang Pasang Sherpa 以下パサン)が、大の日本びいきで、昔東京に住んでいたということで盛り上がる。
妙に器用な日本語で話しかけてきて、一杯おごってくれたりするものだから、最初のうちは裏があるのではないかと勘ぐってしまったほどだ。
が、彼は単純に楽しかった東京での生活を共感してくれる人がいて嬉しかっただけで、第一彼は我々よりもよっぽど金持ちだ。
なんでもナムチェでは4軒ほど店を経営していて、奥さんと子供はカトマンズに住んでいるのだとか。店にはビリヤード台が置いてあって驚いたが、これもパサンの仕込みだと言う。(ヘリで運んだらしい)
そして何よりここでのパサンとの出会いは、カトマンズに戻ってから新たな偶然とリンクすることになる。
途中でJonathanがやってきたはいいが、何やらツケが溜まっていて込み入った話をしていたので、結局あまり話すことはできなかった。
ソウ兄とビリヤードを1ゲームやって(負け)、帰途に着く。
パサンとの会話は大いに有益で、特に疑問に感じていたネパール人の宗教観(ヒンズー教と仏教が混在する民族性とその融和点)について聞けたのは収穫だった。
さて、明日がエベレスト・ラストトライになるわけだが、この時点でも星空は厚い雲に隠されており、期待感を削ぎ落としてくれる。
しかし、ここに至るまでの充足感を考えると、仮にエベレストが見れなければ見れないでも、まあ別にいいかとも思えてくる。
そもそも何故エベレストにこだわるのか?と聞か

