
ジェフとの語らいから一夜明け、朝がやってきた。
今日はアンコール・ワットの街、シェムリアップに移動するため、半日をバスに揺られて過ごすことになる。
出発までは、まだ2時間ほど余裕がある。
夜の早さと引き換えにプノンペンの朝は早い。通り沿いの店は軒並みシャッターを開け、営業を始めていた。

一昨夜、おっかなびっくり訪れたマーケットまで足を伸ばす。
中は食べ物から衣服、家電までごっちゃごちゃに様々な物が並べられていた。
クメール・ルージュ支配の時代には貨幣経済が廃止され、主に米との物々交換が基本だったので、当時からは考えられない光景だろう。
SONYやHYUNDAIの電化製品を横目に見つつ、自分はカンボジアに対して"内戦の爪あと残る"イメージが強すぎだったんだなあと思う。
思えば30年という時間はある程度経済を立て直すには十分な時間で、日本だって戦後30年、つまり自分が生まれた頃には戦争の面影は見事に払拭されていた。
もちろん日本の驚異的な復興のスピードは特異であり、カンボジアの現状と並べて比較するには大雑把にもほどがあるわけだが。
バスで食べるようにとサンドイッチと水を購入し、まだ全然時間があるので、ゲストハウスの裏通りの朝市も覗いてみた。
そこに売られていたのはむき出しの魚や肉、野菜などの生鮮食品。わんわんとたかるハエの群れを見て、食堂で運ばれてきた皿の上を舞うハエを追うことの無意味さを感じた。
ゲストハウスに帰り、1階の食堂でヌードル・スープで簡単な朝食を済ませた後、部屋に戻って荷造りを整え、10時にチェック・アウト。
バス乗り場へと向かう。
※ちなみにプノンペン→シェムリアップのバス代は25,000リエル。市中では$1=4,000Rで等価交換できるので、日本円にすると600円くらい。距離と時間を考えるとかなり安い。
バスは少し遅れて10:30にシェムリアップに向かって出発した。
道中はもはや見慣れた感のあるカンボジアの田舎風景が延々と続いていた。

途中パーキングで2度の休憩を挟んで、バスはひたすら北へ西へと進む。
特にやることはないので、本を読んだり、日記を付けたり、前の席から顔を出す男の子にちょっかい出したりして過ごした。
― そろそろ腰や膝が限界に達してきた16時にシェムリアップに到着した。
最初「え?ここで降ろされるの?」という簡素な場所で止まり、乗客の半分以上がそこで下車したので焦るが、そのままバスは出発し、キャピトルツアーのシェムリアップ支店前で終着とあいなった。

ここでもまずは今夜の宿探しから始まるのだが、今回も特に迷うことはない。
事前の情報収集でバックパッカーにはポピュラーゲストハウスというそのまんまの名前の宿が人気があると聞いていた。
場所は南北に長いシェムリアップの最南端に位置し、バス停から1分もかからない距離にあった。
いくつか部屋を見てファン、トイレ・シャワー共同、窓付きの部屋に決めた。1泊$3というお手頃価格。
受け付けの青年は実に親切で、地図がほしいというと無料の地図をくれ、丁寧に現在地と中心街、そしてアンコール・ワットへの行き方を教えてくれた。見るとアンコール・ワットは10kmに満たない位置にあるようだったので、翌日はまた自転車を借りて行くことを考えた。
そう告げると、おあつらえ向きに宿でも自転車を借りれるという。完璧だ。
部屋に荷物を下ろすとすぐに街に出てまずはシェムリアップ川(Siem Reap River)のほとりでぼんやりと一休みする。

日が落ちてきたので、街の中心に向かい、適当な屋台を見つけ、席に着いた。
腹が減っていたので、麺、チャーハンそしてビール(大)を頼んだ。
食事をしていると隣の席に座っていた初老の白人女性が「タバコ吸っていい?」と聞いてきたので、どうぞと言うとその流れで「どっから来たの?」トークに展開した。
その女性はドイツから1人でやってきたそうで、普段は山歩きが趣味なのだそうだが、体力的にきつくなってきたので今回はフラットなところを選んでみた、と話す。とはいえ、カンボジアに女性1人旅とは、大した度胸だと思う。
どのみちビール(大)は1人では多かったので、1杯すすめるとぐいと飲み干し、今度は私がおごると言って新たにビールを注文し、グラスに注いでくれた。
再び満たした1杯もみるみる空にすると、彼女は席を立ち、また1人になった。

すっかり辺りは暗くなり、夜の装いになってきたが、さすがシェムリアップはカンボジア、いや世界でも名だたる観光地だけあって、アンコール・ワットから帰ってきた観光客でプノンペンとは逆に遅くなるほどにぎやかさは増してきた。
屋台を出て街を一周し、街の西端にあるナイト・マーケットに立ち寄ってみた。

中には土産物や服、絵画などが整然と並べれていたが、特に買いたい物があるではなし、店先を冷やかして回った。
マーケットの一番奥まで行くと、1枚の立て看板が目に留まる。
そこには「ポル・ポト、虐殺の歴史」と題した映画の上映スケジュールが書かれていた。当然興味が沸き、観てみようかと思うが、次の上映まではかなり時間がある。
映画館の入り口とおぼしき場所に腰掛けていた若者が近づいてきて「観て行きませんか?」と声をかける。観たいけど次の回まで待つのはしんどいから明日また来るよ、と話しリーフレットだけもらってその場を立ち去る。
ナイト・マーケットを出て、宿に向かって帰ろうかと思ったが、ふと明日また来れる保障は何もないんだよなあと思い、踵を返しまた映画館まで戻った。
さっきの青年は笑って、「明日じゃないの?」と聞いてきた。やっぱり待つことにした、と言うと、ベンチをすすめてくれ、どう見てもひまそうな彼と例によって「どこから来たの?」的な会話が始まる。
やはりひまそうにしていたチケット売り場の女性も「日本人は一杯くるけど、映画は英語とフランス語字幕だからかほとんどお客にはならないの」と会話に参加してきた。もっとも、日本人どころか周りには他に客らしい人は見当たらなかった。
ふと絵葉書と一緒に並んで売っている本の中に見覚えのある表紙が目に付く。戦争映画シリーズVol.11で紹介した「最初に父が殺された」の英語版とフランス語版だった。
おお、と思い、この本に背中を押されて俺は今ここにいるんだ、という話をし、言葉を選びながらクメール・ルージュ時代のカンボジアに興味を持ったいきさつを話した。
共感してくれたのか2人とも饒舌になり、あの時代の体験者がここのスタッフにいるから違う日だったら紹介できたのに、と惜しむ。
そんなこんなであっという間に上映時間になり、中に入る。
案の定、劇場は自分1人の貸切だった。
映画の大筋自体はすでに知っているクメール・ルージュの勃興と凋落についてだったが、農奴政策を始めて米を作りまくったけどソ連が安い米を大量に市場に流した結果米が売れず、おかしくなり始めた話などは興味深かった。また、前国王シアヌークの功績を称える要素が多分に盛り込まれていたのも特徴的だった。
約40〜50分の上映が終わり、受付の2人に別れを告げて宿への帰途に着いた。
今日は単なる移動日と割り切っていたが、思い返すと想像以上の異文化コミュニケーションがあったものだ。
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